Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

苦の終焉

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苦の終焉ってな表現を聞いちゃうと、苦が終わるんだねー。

ってね。

そんな風に感じたりするかもなんですけどね。

で、こういった「それ」とか「悟り」とかに興味を持ったりするのも、
苦の終焉を求めてるから、って方もおられると思うんですけど、

苦の終焉ともちょっとニュアンスが違ってましてね。

苦の終焉といいますと、まず苦と言うものがあって、それが終わる。

みたいな感じがしちゃうじゃないですか。
でも、そういう感じじゃなくて、

単に、なんでもないものを苦と見なしていた。
って感じなんです。

もっと詳しくいうと、

なんでもないものの中のほんの一部分に、自分という観念をくっつけて、
そのくっつけた自分と自分以外という分離の概念が生まれて、
その分離の概念から、
その中で作られた観念上の自分を守らなきゃならんという観念が生まれて、
守ろうとするんですけど、どうにもうまくいかない。

そんな時の思い通りにならないわけですが、思い通りにならないのは具合が悪いっ!
と認められずにいるのが「苦」なわけです。

フムフム。
ややこしいですね。

で、その思い通りにならんっ!っていう衝動が、苦の終焉を求めるわけです。

そして、苦の終焉を求めている間は、その「苦」に対してリアリティーを持ってるわけですね。

じゃなきゃ、苦の終焉を求めたりしませんもんね。
どうあっても「苦」があるとおもっとるから終焉を求めるわけですからね。

この時点ですでにボタンの掛け違いをしておるわけなんですよねん。

「ワタシはいない」とか「分離は幻想だ」
とかね。

んなことを何回聞いても、実感としての自分が在る感覚って在るじゃないですか?

でも、もっと正直に、もっと正確に見てみるとですね。

在る感覚は確かにあるわけですけど、そこに「自分」ってのはいないわけなんですよね。

聞こえる音。その音を聞く経験。

それは確かにある。

でも、その音を聞いてる誰かっていないわけなんです。

どうしても根っこに分離の感覚があって、分離の感覚というフィルターを通して
物事を咀嚼するクセがあるもんですから、
音が聞こえるからには、そこに音があって、それを聴く誰か?つまり自分がいるはず。

ってね。
そんなイメージが頭の中だけで解釈としてあるわけなんですが、
そういったイメージは、たんなるイメージですので、実体はないわけでしてね。

なので、あるのは、その経験しか無いわけですねー。

音という個別の対象があるわけでもなく、経験だけが在るわけですね。

そして、それがまさに「在る」という「それそのもの」なわけでして、

それでもう、ザッツオール!なわけなんです。

なのでねー。
苦の終焉というよりは、苦っていうのは、作られたイメージやったんやん!

って言う事の発見ってなニュアンスなんですよねん。

じゃあ、イメージを作らんかったらええんやな!

ってね。
思っちゃうかもしれませんけど、そう思ってるのも
苦の終焉を願う自己のイメージからくる観念だったりするんですよね。

なので、堂々巡りになってしまうんです。

な~んもない中で、なんとかしようとする衝動をそのまんま見てみるっていうのは、
ものすごーく自我ちゃんにとっては退屈で耐えられん!っていうような感覚なんですけど、

その、耐えられなーい!退屈だー!っていう感覚を見てみることが出来ると、
そのエネルギーが行き場を少しずつ失っていくかもしれません。

そして、そこに残る退屈さから、「退屈という観念」が外れた時に、
「それそのもの」が残るんです。

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