Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

全ては得る必要も失うこともない

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物心ついた時から付き合ってきた自分という感覚。

それには大きな愛着を感じるものです。

なので「それ」を体験?得る?には自分を捨てなければならないんじゃないか?と思うと寂しく感じるものです。

その愛着さえもやっぱり自分が作り出している愛着なんです。

それを失うのは怖くもあり寂しくもあるものです。
でも、「それ」は体験するものでもなく、得るものでもなく、自分を捨てた暁に体感できるものでもないわけです。

大丈夫、何も失わないんです。

失うというのは一つの概念であって、全ては得る必要も失うこともないんです。

だから、失うかもしれないというは錯覚なんです。

自分だと誤解していた自分感覚。
この檻から放たれると完全な自由に溶け込みます。
この自由は、自分感覚にとっては退屈極まりないものです。

だから自我ちゃんは、何にもなくなると、何かと考え事などの思考、感情で埋めたくて仕方がなくなるんです。
それも自分感覚が勝手にやってることなんです。

この埋めたくて仕方ない感覚を、そのままほっておくと、その行為が行き場を失い消えていきます。
そして自分という小さなかけらを含む全部が残ります。
何も失いません、何も変わりません。

ただ、僕らは自分感覚以外の全てに対して目を覆っていただけなんです。
全ては全てとして、ここにあったんです。

退屈さから考えごとを産もうとする衝動、それが目を覆うエネルギーというわけです。
覆いをとったところで、何かがなくなることはなく、ただ、それを行為する誰かは一切いなかったと気づくんです。
また面白いことにその気づきもまた、分離が生む一つの概念だったとわかってきます。
気づく者も気づかれる何かもないわけです。
そして、その気づきも小さなかけらとして全部の中に漂います。

最後まで読んでいただいてありがと〜ございます!
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