Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」のことについて

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悟りしかり、
ワンネスしかり、
非二元しかり、
アドヴァイタしかり、

「それ」のことについては、いろんな名前で呼ばれています。

そういった名前をつけるということは、「それ」固定化し、概念化してしまいます。

言葉だってそうです。

あらゆる言葉は、「それ」を固定化し概念化するためのツールとなっています。

それというのは、あらゆる固定化、概念化をする前の地平線のことを指します。
なので、「それ」のことは、言葉や名前では表現不可能なんです。

エロい先生たちが様々な呼び方を開発するのは、
聞く人がその呼び名に対して慣れてしまい、概念化が大きくなってしまったことによって、誤解が生じることを避けようとするからなんでしょうね。

これらの言葉が指し示す意味というのは一切無いんです。

意味が概念化を推し進めるんですよね。
だから、どうせなら
プリプリフリッペとかズンドコベロンチョとか、
単語の字面から意味を類推させない意味不明な名前にすればいいのに、、、とも思いますが、ま、どうでもいいです。

さて、

実際の「それ」流動的でつかみどころはないものなんです。
だから、非二元でもなく悟りでもなく、何でもないものが「それ」なんです。

「それ」は見つけられるものじゃなく、見つけようとすることや、知ろうとすることの外側に存在しています。
全てはその存在なんです。

それはハンドルをつかまずに運転するような不安定さを自分に感じさせるかもしれません。

でも実際は自動運転なんです。
ハンドルをつかむことによって自分が運転しているという錯覚を産んでいるんですね。
ま、当然のことながら運転ってのも例えです。
自動運転だからと言って運命が決まってるということでもありません。
運命は決まってなんかいなくて、それでいて選択の余地すらなく、

出来るのは後付けでこれは運命やとか決まってたんやとか、好き勝手に言えるだけです。その後付けで説明されているもの。

それが物語であり、オママゴトのストーリーなんです。

最後まで読んでいただいてありがとうございます!
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