Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

僕らがストーリーに無我夢中なワケ

はじめに

はいどうもー!
タクさんです。

みなさんご機嫌いかがでしょうか?

さて、みなさん。
「詩人追放論」というのをご存知でしょうか?

文字通り、詩人を追放しろ!という意味なんですが、これを唱えたのがかの有名なプラトンさんです。

プラトンさんは、感情や快楽を刺激したり、情に訴えかけたり誇張をしたり過激な演出で創作された演劇に晒され続けると、大衆はその影響を受けて健全な精神を崩壊させる!
ひいては国の滅亡を招く!

ってなことで、こういった詩人は追放すべきっ!
と訴えてたんですねー。

そうなんですよ。
僕らは感情を刺激される過激なストーリーにいとも簡単に飲み込まれてしまうんです。

例えば、映画なんかにいくと大体8分くらいでそのストーリーの中に入り込む。
なんて言われています。

ですので、制作側はこの最初の導入にものすごーく気をつかうわけなんですよね。

広告なんかでもストーリーをよく使います。
CMなんかでもストーリーを感じさせる演出ってよくあるじゃないですか。

あれも、僕らがストーリーに引き込まれやすい性質を巧みに利用していると言うわけですねー。

僕らは頭の中のストーリーだけでなく、作り物のストーリーにも強く影響されるということなんですねー。

なぜなら、そもそも僕らの頭の中のおしゃべり自体がストーリーだからです。
この世の全てはストーリーによって表現され、このストーリーこそが真実であると錯覚し、
そして、そのストーリーにより刺激を持ちたがるんです。

思考に飲み込まれるのは「私」ではない

まあそんなわけでしてね。
思考ちゃんのストーリーに飲み込まれちゃうのはある種必然なんです。

それは、ネコが猫じゃらしを無視できないのと似たようなもなんです。

ただこれって、僕ら自身が飲み込まれてるわけじゃないんですよねー。
反応がそのように起こっているということなんです。

ですが思考ちゃんの中に「私」が形成されてしまってますのでねー。
僕らは思考は私であり、さらには私が思考をうまくコントロールしなければならないと思っているんです。

だから、嫌なストーリーに苦悩するだけでなく、嫌なストーリーを作ってしまう私にも悩まされるんです。

そして、苦悩ではないストーリーを追い求め、それが無駄だと知ると今度は
ストーリーから抜け出るための術を求めるわけなんです。

そしてとうとう、ストーリーから抜け出た状態を掴んだ!
「そうか!私はいないんだ!」と知ったなら、
やっぱり今度は「私がいない」というストーリーを掴んじゃったりしてね。

ホントこのクセは厄介なものです。

あるがままを受け入れる

そもそもストーリーが起こっていようと、消えていようと、
なーんにも変わりはないんですよね。

なんで僕らは変わろうとしてたのか?っていうね。

ストーリーは起こっては消えていく。
どこまでいっても、それはただのストーリー。

それが起こるなら、起こるがままにしておいてあげればよかったんです。
ストーリーの私がどんなに情けない私だとしても、そんな私のまんまでよかったんですよね。

すると、肩の力も腹の力も抜けていきます。
今までストーリーと対峙することにこんなにも力を使ってたのかと驚くばかりです。

どんな私も許されてたんです。
あとはその許しを受け入れるだけだったんですが、それをストーリーが拒否してたんですよね。

だから、このままじゃダメだ!という思いを元にストーリーが紡がれていたんです。

 

 

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