Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

消えゆくからこそ愛おしい

はじめに

はいどうもー!
中年の危機といわれる年代まっしぐらのタクさんです。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

なんでも、40代50代になってくると、
今までどんどん成長してきたはずが、少し落ち着いてきて、
今度はどんどんと老いていくという不安や、
もしかしたら、ワシの人生はあがりなのか?
なんてことを考えだしちゃったりして不安を抱える。

みたいなものが中年の危機らしいですねー。
かなり大雑把ではありますが、、、。

ま、確かに、キャリアや家庭などが落ち着いてきて、
あとは徐々にそれらが失われていくみたいなねー。
そんな雰囲気ありますもんね。

僕もおもいっきり体力は落ちてきてるのを感じますし、
若い頃に比べたら
「別人かよっ!」
って言いたくなるくらい鏡の中の人が変わってきてますからねぇ。

困ったものです。

ま、とは言えねー。
この失うってのは錯覚みたいなものなんですけどねー。
この錯覚のせいで僕らは不安を抱えるのかもしれませんね。

 

・思考の杖

「失うのが錯覚ぅぅ?」
「確実に若さをうしなっとるやないかーい!」

って言いたくなる方もおられるかもしれません。
ですが理屈でこの錯覚性を理解することはできません。

ただ結局これって、勝手に捉えて加工した「今」と曖昧な「記憶」との比較でしかないんですよね。

イメージの中で記憶と比較の概念を使って失ったというさらなるイメージを作ってるだけなんです。

そして、このイメージこそ思考だということなんですけどね。
僕らはこの思考の杖なしでは立つことすらできないと思っていて、
常にこの杖を頼りにしちゃうんです。

だから、あらゆる錯覚にハマっちゃうわけなんですが、
そもそも、思考の杖なしに立つことすらできないというのが最大の錯覚なのかもしれませんね。

・消えゆくからこそ愛おしい

まあ、どんな錯覚があらわれていようと、僕らは何も失っていません。
それどころか、何も得てすらいないんです。

ただただ僕らは、ありとあらゆる起こっては消えていくもの。
それを観て味わっているんです。

これは言い換えると、この世界は自分を面白がらせる装置であって、
僕らはこれを観て、そして味わい面白がったらいいんです。

常にいろんな食事が運ばれてくるフルコース料理と例えてもいいかもしれませんね。

これもまた、理解しようとすればよくわからないことになっちゃうわけですが、
わからんままに味わえばいいんです。

この味わいは取っておくことはできません。
全ては起こっては消えていくものですからねー。

だからこそ、愛おしいとも言えるんです。

だって、消えずにずっとあるものってつまらないですもんね。
だから僕らは消えゆく今と起こってくる今に夢中になっているのかもしれませんね。

ただ、起こっては消えていくものに不安を感じてしまうのなら、
一旦このゲームを休憩して、今にリラックスすればいいんです。

すると、決して失わない全体が常に今ここに鎮座しています。
なーんだ。何も失わないんだという安堵がココにあるんです。

 

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