はじめに
はーい。
どうもおはようございまーす。
タクさんです。
昔はねぇ。
駄菓子屋さんなんかで小さな子供がお店の人に
「このお金じゃこれは買えないのよ!」
って言われて、それでも納得いかない顔をしている子供。
といったシーンを良く見たものですが、最近はそういう場面にてっきり出会わなくなっちゃいましたねぇー。
小さな子供が自分たちだけで買い物をするという機会もなくなっちゃいましたからね。
昔はここかしこに駄菓子屋がありましたからそんな光景も良く見たんだと思います。
駄菓子屋こそ子供達のサロンでして、そこで色々な人間関係も学んだんじゃないかな?
って思います。
僕もねぇ。
これを経験してるんですよ。
小銭を握りしめていざ駄菓子屋デビュー!って感じでね。
お店に行ったんですけど、お店の人がこれじゃダメ!って全然売ってくれないんですよね。
他の人には次から次へと売ってるくせに、僕だけ「これじゃ足りないのよ!」って言われるんです。
これには納得いかなかったですねぇ。
ちゃんとお金持ってきてるのに何がダメなんだ??
ってね。
この納得いかない気持ちって今でもまだどこかに残ってるんですよねー。
もちろん今なら理屈はわかりますよ。
100円のものを10円玉4つくらいでは買えないことくらいね。
でも小銭にそんな価値の差なんて感じないじゃないですか。
なんかみんな一緒のようなもの。みたいなね。
この価値のないものを、まるで価値があるかのようにこぞって振る舞う変な感じ。
さらにそのお金のルールに関して妙に厳格な感じ。
なんでそんなに厳格なん??という不思議な感じ。
うまく説明できないですが、
あの変な感覚については、やっぱりまだ残ってるんですよねー。
おっさんが、お札の風呂に入ってる変な広告ってあるじゃないですか。運が良くなるグッズみたいな怪しい広告です。
あれって理屈では「すげー!大金持ちじゃん!」ってわかるにはわかるんですけど、
本能的な部分で、紙ばっかりの風呂?みたいなのに入って何やってんの??
「なんでそれでテンション上がってるの??変なの。」
って感覚もどこかあると思うんですよ。
きっとこの感覚こそ普通の感覚なんだろうなーって思うんです。
これがねぇ。お金というものに初めて感じた違和感に似てる感じがするんです。
そんなものより、キラキラひかるビー玉とか面白い形をした石のほうが楽しいじゃん!
って感じますもんねぇ。そのほうが本当は普通な感覚だと思ってるんですよ。
・価値の幻想
ダイヤモンドにしたって色んな宝石にしたって、最初はビー玉や川辺に落ちてた珍しい石!みたいな感じでね。
本来のキラキラした感じを楽しんでたんだと思うんです。
でも、これがいつしか、妙な価値観におかされちゃって、
「このダイヤモンドは10カラットもあるんですの!」
「なんと、1000万円もするんですのよー」
みたいな価値観に変わっちゃうじゃないですか。
このせっかくのキラキラにテンションが上がる感じが、この妙な価値観のせいで別の感覚に変わっちゃうんですよねー。
1000万円もする!という別の感覚です。
この高価なものという価値観ってなんかちょっと感覚が違うんですよね。
妙な競争感覚みたいなものが入り込んでるというか、自己顕示に変わっちゃってるっていう感じでね。
せっかくのその石自体のキラキラしてウキウキする感じをかき消してしまってるんですよねー。
この妙な違和感がきっと子供の頃に、コレじゃ買えないのよ!といわれてもなんか納得できなかった違和感にどこかしら似ているような気がするんです。
・生のダイレクトな感覚
ですが、大人になるに従って、結局自分にとってワクワクするかどうか?という価値が徐々におざなりになってしまって、
「これっていくらするの?」という価格への関心に置き換わってしまったり、
「この遊びは今後の人生設計によって意義があることなのか?」
「この行為はビジネスとしてなりたつのか?」
といった価値に惑わされたりするようになっていくんですよねー。
今の遊びよりも成績が大事だ!内申書に響く!みたいなことになり、いい学校に行っていい仕事に就くことにより価値がある。
ってなっていっちゃうんですよねー。
もちろんそれが悪いワケじゃないんですけどね。
これって一応建前として演じている方の価値なんだということについては、もし忘れていたのなら今一度思い出してみたらいいと思います。
そして、元々もっていた生のダイレクトな感覚を、心のポケットにしのばせておいてたまにはそれを出しては味わってみるといいかもしれませんねー。