Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

その冒涜は誰に向けられているのか?

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ほい
おはようございます。

タクさんです。

空なんかをみてると、
雲がふわふわっと形を常に変えながら、
何も主張することなく流れていきますよね。

たまに奇跡的に面白い形なんかになったりして!

うおっ!鳥の形になった!!
と喜んだりしちゃってねー。

でもまた、次第に形を崩し別の形へと変化していくわけです。

空に浮かぶ雲だけじゃなく、
ほんとはあらゆることすべてがそのように、
常に変化を繰り返しながら、
それでいて、どこにも個別性はなく、
完全な連携として繋がっているんですよねー。

 

僕らも、習慣化という便利な機能を持っているので、
毎日が同じように過ぎていくような錯覚を感じたりするわけですが、
同じ日なんて絶対にないんですよね。

だから、すべての瞬間は奇跡的だし、愛おしいとも言えますもんね。

と同時に、雲の形のように移ろいゆくものに安心を求めていると、
形(条件)に依存してしまいます。

すると、奇跡的で愛おしい世界が、
あっという間に不安定で不安な世界へと様変わりしてしまうというわけです。

だって、絶対に形は変化し続けますもんねぇ。
それをなんとか、自分の望む形にはめ込もうとしたところで、
それをコントロールしているものは誰もいないんですから。

となると、
僕らの苦しみって、
雲に一定の形を求めることによって生み出されているようなもの。
ということなんですねー。

雲がどんな形をしていようと、
何かが減るわけでもなければ、増えるわけでもない。

そして、その形に意味があるわけでもなければ、
価値があるわけでもないわけです。

僕らが、求める幸せ。
これってのは、絶対的な安心であり、安堵ですよねぇ?

安堵し、安心していること。これが幸せなんだと思います。

では、安心ではないものはどこにあるのかというと、
これは、意味づけの中や、条件付けによって生じている価値の中にあるわけです。

でも、この価値や意味づけが、
本来は一切なく、意味や価値は、何の力も持っていないんです。

ついつい僕らは、意味や価値に力を求めがちですが、
意味や価値というのは、先に生じているものに後付けでつけられてものでしかありませんよね。

最初にモノなり、何かがあって、それに後から意味や価値をつけているだけですからねー。

あなたという存在だってそうです。
どんな意味や価値を自分自身に感じていようが、それは後付けされたレッテルに過ぎません。
それ以前にあなたはもう生じていて、表現されているわけです。

マイケルジャクソンのプロデューサーとして有名なクインシー・ジョーンズさんだって、このようにゆーてはります。
「君は、すばらしくて、美しい、人間なんだよ。別のものになっちゃダメだ」

レッテルは、本物を超えることはできません。
だから、レッテルに依存するのは本末転倒だし、単なる自己への過小評価なんです。

これを宗教的に表現すると、
「神への冒涜」
ということになるのかもしれませんね。

自分を許してあげなさいよー。
ってね。
ゆーてますけど、これは神への冒涜をやめなさいよー。
ってのと同じ意味になります。

あなたが冒涜するから、あなたが傷つくんです。

貧乏性の僕からすると、
「そんなんもったいないやーん。損やん!」
って感じちゃいます。

ですが、よくよくみると、どんなレッテルも、どんな冒涜も、
それはイメージで殴りつけているようなもので、
本来のそれは実際に殴られることもなく、何も影響を受けてないんですけどね。

だからね。
ついつい、自分を罰しちゃうというのなら、そんな自分もまた許してあげたら良いんですよね。

テヘペロ♪(๑>◡<๑)
って感じでね。

 

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