Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生きるのに疲れたってきっとウソですよねぇ?

はじめに

ふえーい。
おはようございます。
結構な頻度で
「生きるのに疲れた」
というメッセージを頂戴しているタクさんです。

いやー。
たしかにね〜。
あれこれと大変なことも多いですもんね。
みなさん。
とっても頑張ってらっしゃるんですね〜。

偉いです。

むしろ、偉すぎます。

そんなに偉くなってどうすんの?
っていうくらい偉すぎだと思います。

ちなみにね。

生きるっていうのは僕らがやっているわけではありませんからね〜。

ホントは、疲れるようなことじゃないんですよね。
なので、疲れているのは別の理由から来ているんです。

 

私が生きているのではない

そもそもね。
ぼくらって、自分が生きているわけではありません。
だって、自分っていう自我が誕生する以前から、
もうすでに生きていたわけですからね。

ちなみに、この生は途切れること無くずっとあるんです。
この生きているは個別に存在しているわけではありません。

あらゆる連携の中に全てとしてあるんですよね。

そんな生の中、「私」という概念を掴み始めた後に、
私が生きているという概念を作り上げてきたわけです。

だからね。
私が生きているのではなく、生きているの中に「私」という概念が作られたということなんですよね。

ただ、概念は実在しません。
だから、「私」というものは、いわゆる抽象的なイメージの中にだけ存在しているわけです。
そして、そのイメージの中で「私は生きている」という幻想が生じている。
ということなんです。

生きるのに疲れるということはない

また、そもそも生きるのに疲れるも、疲れないも存在しておりません。
だって、これらは勝手に生じているものですからね〜。

僕らは、何もやっていないんです。
心臓を動かすのも、血液を循環させるのも、
食べ物を分解するのも、細胞分裂も、
僕らは関与してませんもんね。

だから僕らは生きるのに疲れているわけではないんです。

では、何に疲れているのか?というと知ら無いうちに掴み取った条件づけ。
これに疲れているんですよね。

条件付けとは仮の自分に課せられているハードルのようなものなんです。
そして、このハードルに疲れてるんですよね〜。

ちょっと頑張りすぎよ。もっとダメでいましょう。

だからね。
疲れてるって人はもう頑張り過ぎなんですよ。
ハードル上げ過ぎなんです。ハードルを下げなさいよ!というサインなんです。

頑張って疲れてるんだったら、もうそれって無理してるんですよ。

でね。条件付けにこだわりすぎてるんです。

こだわることなんてありませんし、無理することもありません。
こだわりがある!ってのは、別になんらカッコいいことでもありません。

もっと適当でいいんですよ。
適当とは、適度ということですからね。

それだと自分がダメになるっていうんでしたらね。
もうダメでいいんですよ。

頑張りはそれが楽しいくらいで良くて、それ以上は無理をしすぎているんです。

偉すぎなんです。だからね。もっとダメでも良いよってね。
自分をちょっと楽にさせてあげてくださいませませ。

 

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