Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

己のハードルを下げる方法

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はじめに

こないだ、糸井重里さんの話をたまたま聞いたんですけどね〜。
すごいですよね。

もう20年以上毎日記事を書いてるんですって。

ひょえ〜でございます。

で、やっぱり大変なんだそうです。
そりゃ〜大変だよねぇ〜。
偉いなぁ〜。

僕もねぇ〜。
なるべく毎日書きたいと思ってるけど、たまにサボっちゃうもんなぁ〜。
でも、数年くらいは毎日書いてたので、これが大変だ!という気持ちはよくわかりますです。

それを20年以上だもんねぇ〜。

ちょっと、ワシも頑張ろうっ!って思いました。
またサボるかもしれませんけど。

いやぁ〜。
そんなわけで、おはようございます。
タクさんです。

飽きずにやるってのは、ちょっときついのかもしれません。
飽きないか飽きるかなんてコントロールできませんもんね。

でも、嫌なことはやらなくてもいいんだけど、
飽きてもやるってのは、もしかしたら大事なことかもしれませんね。
それがどんなことでもいいと思いますけどね。

 

己のハードルを下げるにはどうすればいいのか?

さてさて、
というわけで、今日は
トゥウィッター(笑)の方に頂いた質問について書いてみたいと思います。

質問内容は、

己のハードルを下げよう、というのは、
具体的にはどうやればいいのですか?
もっと自分に優しくしてあげるということですか?

です。

うーん。
これねー。
何かをやるってことでもないんですよね。
むしろ、やってることをやめてみるということなんです。

そして、具体的というのは、その具体性っていうのは個々人が持ってるものですからね〜。
具体的に何かをするっていうことは言えなかったりするんです。
ですが、個人が持ってる具体性にあまりこだわる必要は無いんですけどね。

己のハードルは何で出来ている?

ちなみに自分に課しているハードルってね。
何を元に作られているのか?といいますと、
比較の概念なんです。

僕らは比較によって、自分をいじめているんです。

自分に何かを課すことが悪いことか?というとそうでもなくて、

ゲームをするには、一定のラインを作らなきゃならないわけでして、
そういう意味では全然良いんですけどね。

ただ、これが行き過ぎて、このハードルを超えられない自分は、
まるで不能である、何かが決定的に足りない存在である。

ってね。
そう結論づけるのは、ゲームのラインを超えちゃってるよね。
っていう話なんですよね〜。

この比較の概念は、いわゆる主観のようなものであり、
真実ではないんです。

比較の概念に気づくこと

では、ハードルを下げるというのは、どうすればいいか?
ということなんですが、
比較の概念を採用しないということなんですが、
ま、これって、できそうに見えて出来ないんですよね。

やなこと考えずに、いいこと考えればいいじゃん!

ってのと一緒です。
理屈としては簡単そうに見えて決して出来ないってやつですね。

では、どうしたら・・・。ってなるかもしれませんが、
それはもう、自分はどのような比較の概念を採用しているのか?
これを観ること。
これだけなんです。

そして、へぇ〜。
自分ちゃんは、これを比較の概念として採用してるんだ。
なるほどね〜。
ってね。
観るだけなんです。
それ以上は何もしません。
どうやって手放そう?とかしなくてもいいんです。

なぜなら、比較の概念に真実性は無いからなんです。
ちゃんとみれていると、そこに真実性がないこともまた見えてくるんですよね。

最初は、その比較の概念が当たり前の大前提になっているので、なかなかに難しいのですが、ちゃんとみれば観るほどに、それって真実じゃなく思い込みだよね。
っていうのが明らかになってくるんです。

あと、出来ることといえば、観るのが難しいうちは、書いてみるってのもオススメです。
書くことで、採用している概念を対象として感じやすくなるんです。

 

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