Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

己を知るには、己のハードルを下げればいいよん♪

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はじめに

はい。
どうもおはようございます。
タクさんです。

孫子の兵法というものがありますよね。

その兵法の中に、
敵を知り己を知れば百戦殆うからず
という言葉があります。

敵を知って己を知ってさえいれば負けないよ。
ってやつですね。

孫子の兵法っていうのは、戦う前に徹底的に負けない方法を取れっ!
戦いは戦う前にほぼ決まっている!

っていう教えがほとんどなんですけどね。
まったくもっておっしゃるとおりだなぁ。と思ったりもします。

このね。
敵を知り己を知れば百戦殆うからず。
っていう言葉の中で、

敵を知るっていうのは、結構簡単だと思うんですよ。
僕らは、目の前のことをあれこれと分析するのは得意ですからね。

ただ、己を知るっていうのが、なかなか難しかったりするんですよねー。

歴史を見ていても、やっぱり己を知らずに失敗するっていうパターンって多いですもんね。

過大評価をしても失敗しますし、過小評価をしても失敗するっていうねー。

己を知るのはなかなか難しいもんです。

わが社は少数精鋭です。和気あいあいとした社風です!
なんて言ってる会社は、きっと己を知らないんじゃなかろうか?
と思ったりもしますもんねぇ。

 

己を知るのはなぜ難しいのか?

己を知る難しさの一つにね。
きっと僕らは、自分を知ろうとするときに、
「自分は何を考えているのか?」
というところに注目しちゃうから。
っていうのがあるのだと思うんですよ。

だって、自分を知ろうとすると、きっとすぐに、
自分は何を考えているのか?
って思っちゃいがちですもんね。

自分を観る。
観照する。

っていうのもね。

なかなかピンとこない事があったりしますが、
これも、自分とはなにか?というのを、
自分が何を考えているのか?
ということに焦点を当てて、その上で定義づけようとする。

そうすることによって、よけいにわけがわからなくなる。
なんてことがねー。

どうもあるような気がするんですよね。

心の奥に隠された自分

そもそも、考えることっていうのはね。
何ていうか、波の表層に過ぎないんですよね。

その考えが起こる以前には、きっと名もない感情のようなものがあり、
その感情は、以前に体験した何らかの記憶。

記憶は記憶でも、ストーリーとしての記憶ではなく、
感覚として残っている記憶。

この感覚の方にきっと己というものが隠れていたりするんだと思います。

そして、嫌な感覚の奥に在る記憶。
この感覚が嫌であればあるほどに、僕らはそれを隠したがっていたりもする。

なぜなら、それは自分にとってとっても嫌な自分だったりするから。

でも、この隠されているがゆえに、開放されずにくすぶっている己。

この己が、外の世界の色づけ方にものすごく影響していたりするんですよね。

己を知るにはハードルを下げよう

心の奥に隠されている自分。
なぜ、それが心の奥に隠されているのか?
といいますと、

そんな自分が嫌だからであって、
それは、そんな自分を許していないということでもあるんです。

ですが、自分を許していないと同時に、許されたい自分というのも存在するんですよね。

だからこそ、隠された自分は、それを表現する機会をずっと待っているんです。
そして、時折表現しようとするわけですが、そのたびに、それを許していない自分は、

「なぜ自分はまだこんな思いにさいなまれるのだろう?」
「そうしたら、こんな自分から解放されるのだろう?」

って考えちゃってね。

嫌な自分を排除しようとしちゃうんですよね。

と、同時に、排除されようとする自分は、表現さえ許してもらえないことに傷つくわけです。

だからね。
まずは、そんな自分のハードルをおもいきり下げきってやればいいんです。

そもそも、自分と他人を比べる比較対象に使われるものさしは、幻想のものさしに過ぎません。
そんな幻想のものさしで許されない自分を作ってしまうのは、自分がかわいそうですもんね。

 

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