Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【私はいない】私がいないのなら、好みもしたいことも無いのでは?

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

色々ある中、みなさんごきげんにお過ごしでしょうか?
今日はですね。
ツイッターの方にいただいた質問についてお答えしようかと思います。

質問はこちらです。

まー、この「私はいない」の話なんですが、
このことをなんとか表現しようとしているのがこのブログであるとも言えるので、
なんていうかツイッターの質問に一言でお答えするのは難しいので、
ツイッター上では、
「んなーことはないですよー」
っていう、思いっきり答えになってない答えをしちゃいましたが、
今日はこの補足を書いてみたいと思います。

 

主体者が必要なのは、現象を説明するときだけ。

さて、まずこの質問の答えからささっと書いちゃいますとね。
主体者というのはまあレッテルのようなものなんです。
そしてこのレッテルが必要なのは、ストーリーとして何かを説明するときだけなんですよね。
ストーリーには必ず主人公が必要です。
そして主人公からみた脇役や外の世界も必要です。
それが無いとストーリーは始まらないですからねー。

僕らは、目の前の世界や現象を理解しようとするときに、
ストーリーを作り上げないと掴みとれません。

だから、必ず行為者としての私がストーリーには必要なんです。

真実というのは掴みとれません。
真実は全てであるからです。全てというのは分離がないということの見破りです。

なので、主体と客体という分離が必要なストーリーと
分離のなさは共存できないんです。

説明はあくまでも説明でしかなく真実では無い

僕らは全てを見ることってできませんよね。
僕らが目で何かを見るときには、焦点を絞らなければ何も見えません。
全てを見ようとすると全てがボケてしまいます。

同様に全てを掴み取ることもまたできません。
僕らが掴み取れるのは限定的なものだけなんです。
なーんていうか、掴み取るというのは、
何かに架空の線引きをして枠を作るって感じなんですよねー。
そして枠ができて初めて、枠の中と外という区別が登場するわけです。
この区別がないと僕らは何も掴めないんですよね。

掴み取るとは理解をすることなんですが、理解には何かしらの説明が必要になるんです。
この説明は、架空の枠を作ることで可能になるんです。
この枠の線引きによって主体と客体や個別化を作り上げるわけなんです。

説明を真実だと錯覚しがち

僕らはこの架空の線引きによって初めて何かを理解できた気になるんですが、それはあくまでも全ての中の一部分に限定された説明に過ぎないんです。
この説明がストーリーというわけです。
ストーリーには部分的な真実があるように見えますが、そもそも全ては部分的に存在したことなんてありませんからね。
部分的な真実というものもないんですよね。
でも僕らはこの部分的なものを真実だと錯覚しちゃうわけです。

有るも無いもない。

私はいない。は観念でも概念でもありません。

だから「私はいない」は信じたり、装ったりするということではないんです。

ストーリーには、その物語の設定として、観念や概念を必要としますが、
「私はいない」を物語の設定として持ってきたなら、
当然、ストーリーは成り立ちません。
ストーリーは主体者がいてこそ、初めて展開しますのでね。

私がいないふりした主体者を演出する。
みたいな、ちょっと変なことになってしまいます。
だから、ここで常に混乱しちゃうんです。

あれ?私はいないのに、この好みは誰の好みなんだろう?
とか、そんな変なことを考えちゃうんですね。

そもそも、「私はいる」も「私はいない」もどっちでもないんです。
どっちか?というものすらありません。
全てしかないんですが、ここは言葉にあまり惑わされない方がいいんです。
言葉というのは「どっちか?」という概念があらかじめ練りこまれたツールですので、
言葉上で理解しようとすると「どっちなのか?」という観念に振り回されちゃうことになるんです。

理解と思い込みからの目覚め

混乱の理由は、ストーリーとして理解しようとする癖に気づいていないからなんです。

だから無意識にストーリーを作り上げますし、ストーリーを真実として扱うんです。
この癖が無意識に身についちゃっているんです。
もちろん、赤ん坊の頃は持っていなかった癖なんですけどね。
だから全てはストーリーとして説明できるものだ!と信じて疑わないし、信じてうたがわないことすら忘れちゃってるんですよね。
なので、ここは根気のいる気づきの練習がどうしても必要なんです。
それは、一切の思い込みを参照しない練習です。
スルースキルみたいなもんですかね。
ストーリーの一切を自分の中から消し去ろうとすると、それはうまくいきませんし、
そもそも無理な話なんですが、ストーリーを無意識に信じてしまっていることに気づく練習はできるんです。
それが思い込みのスルーです。
思い込みのスルーを言い換えると「あるがままに在る」ということです。
どんなものも、思い込みによって担保されていません。
最初からあるがままに在るんです。
思うから在るんじゃなくて、もともと在るものに対していろいろな「色」をつけているだけなんです。

そもそもその「色」が本当にあるわけじゃないんですよねー。

さあ、ポンッと手を叩いて、一切の思い込みをスルーしてみましょう。
思い込みが出てきたなら、またポンッと手を叩いてスルーしてみるんです。
これも一つの練習として、やってみたら面白いかもしれませんよ。

 

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