はーい。
どうもおはようございます。
映画のドラえもんでは、
ジャイアンはとっても頼り甲斐のある良いヤツになりますが、
テレビに戻ってくると、途端に良いヤツだったジャイアンは消え去ってしまいます。
この辺の違和感に今の子たちはどのように向き合っているのか?
そんなことがちょっと気になるタクさんです。
ジャイアンといえば、こころの友よぉー!
が口癖ですよね。
これは、人と人が分かり合えたと感じたときに出てくる言葉なんだと思います。
そして、分かり合えないとき、僕らは衝突したり苦しんだりするわけですが、
人と人が分かり合えるってそもそも何なんでしょうねぇ。
そんなことをテーマに今日は書いてみたいと思います。
鏡の世界
さて、
目の前の世界は自身の投影である。
なんて言葉を聞いたことがある人も多いと思います。
つまり目の前の世界は鏡のようなものだというわけです。
僕らは鏡を見ているという意識はないので、
起こっていることは、自分の外で起こっているって思ってるんですけどねー。
起こっていることって自分の中で起こっているんですよね。
そして起こっていることの全てに価値の差はなく、
すべては、なんでもないことが起こっているんです。
起こっていることの本質
起こっていることの本質は無色透明なんですね。
なので、何が起こっているのか?ということに正解はありません。
僕らは起こったことに瞬時にレッテルを貼り、
あんなことがあった!こんなことがあった!
って思ったりしていますが、
このあんなこと、こんなことを決めているのは、観念なんです。
そして、観念を通した出来事を起こったことだと思ったりしているわけですが、
これは、書き換えられたものですのでね。
真実ではないんですよねー。
真実じゃないならなんなのよ?
と言いますと、それは思い込みなんです。
僕らは持っている観念。採用している観念をそのまま見ているというわけなんです。
このことが鏡だと表現されているんです。
観念の共感
さて、
人と人がわかり合う。というのは、何かと言いますと、
簡単にいうと、観念の共感です。
観念とは世界観のようなもので、僕らは本当にたくさんの観念を持っています。
そして、大切な観念は、信念となっていたりします。
そんな、観念が共感されたとき、分かり合えたような気になるんですよねー。
また、その共感された観念が信念だった場合は尚更、心の友よ!状態になるわけです。
信念となった観念は、自分自身をよそおう
僕らは世界を見るときに中心点に「自分」という概念を置きますので、
必然的に観念と自分を同化させます。
特に大切な観念である信念は自分と強く同化するんです。
そして、そんな観念が損なわれると感じたとき、不快感や拒否反応が起こるんです。
でね。
こう言った不快感や拒否反応ってね。
誤解から生じている思い込みですのでね。
別に、自分は損なわれないんですよ。ほおっておいても。
ただ、大丈夫なんだ!というのを知るためには、ほおっておかなきゃいつまで経っても確かめられませんのでね。
なので、無理のない程度に迎え入れてあげてみれば良いんです。
大丈夫なんだー!ってしれば知るほど、僕らは最初っから許されていたことも確かめられるんです。
へ?観念なんてなんでも良いんだ!ってね。しれば知るほど、自分も、そして他人もゆるされるんです。
こうなってくると、観念の違いに悩まなくてもすみますし、観念の共感もあってもなくてもどっちでも良いってことになるんです。
そんなとき、人は無条件で分かり合えるってことにもなりますし、
そもそも、個人や自分も観念でしかないので、分かり合える以前に一緒だということになるんですよねー。
観念が違ってもね。
※この辺のお話をもっと噛み砕いてお話しいたします。
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