Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目覚めを生きる

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はい。
おはようございます!
タクさんです。

久しぶりにカフェで執筆しております。
席がだいぶ間引きされておりまして、
窓も開けっぱなしのオープンテラス形式になっていて、
以前のようにたくさんの座席の中、縮こまって作業をしていたのよりも、
ずいぶん居心地が良いような気がしています。

 

全体性のお話

さてさて、
僕がよく書いている「すべてしかない」というのは、
まあいわゆる全体性のお話であるわけなんですが、

全体性や宇宙意識。さらには、愛。奇跡。
といろんな表現がありますが、
これらはすべて同じです。

僕らは分離の中でだけ、愛のなさを感じ、
奇跡ではない予定調和を感じているだけですからねー。

僕らは、何かをわかることで、同時にわからないことを生産しているわけです。
わからないまんまでいると、わかるって無意味じゃん!ってわかるんですよね。

ま、僕は愛とか奇跡という言葉も素敵なので好きではあるんですが、
ちょっと特別感といったような錯覚もこの言葉に含まれるので、すべてしかない。
という言い方をよくしています。

分けるクセ

さてさて、とはいっても僕らには物事を分けて整理して理解するという能力を持っています。
これはある種の機能といっても良いかもしれません
だから、あれこれと考えることはちゃんと起こり続けます。
すべてが全体だと知ったところで、心臓がいきなり止まることはありません。
それと同様に、考えるという機能もいきなり止まることはないんです。

単に思考への依存がなくなるだけです。

思考への依存。これが執着なんです。

思考とはある種のルールづけを元に働きます。
このルールづけが観念だというわけですが、
思考への依存、執着がありますと、このルールを真実として扱っちゃうんですよね。
または、このルールを正義としてしまうんです。

そうなってくると、このルールに深刻になってしまうんですよねん。

目覚めを生きる

まあ、目覚めて生きるとか、あるがままに生きるっていうのはね。
実はみんなすでにそうしているんですが、そこにいろんなものをプラスアルファしているんですよね。
そして、プラスアルファされたものが多すぎて身動きがとりづらくなっているんです。

ヨロイをたくさん身につけて、走れなくなっているというのに近いのかもしれません。

このヨロイに当たるものがルールであり、観念なんですが、
べつに、それが悪いことじゃありません。

でも、そんなルールや観念は遊ぶためのツールであるという真実。
ここを知ることで、すきなルールを採用して良いんだ!
むしろ、観念は自分の好きを表現するツールだったんだ!
と知ること。

ルールをルールとしてあそぶこと。
これが目覚めて生きる。あるがままに生きるということなんですよね。 

takuteto.hatenablog.com

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