Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

価値という幻想

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

僕が大学生の頃、
自分探しの旅と称してインドに行く。
みたいなことが流行っていて、友達も何人かインドに行ったりしておりました。
何故かインドに行くと人生観が変わる!みたいなことがまことしやかに言われておりました。

僕はそういうのあまり信じないたちだったので、
「なんでインドやねんっ!」って思ってたりしてたんですが、
これは今でも言われてるんでしょうかねー。

きっとインド人の性質が日本人とは随分違うからなんでしょうねー。

ま、こういう場合の、人生観が変わる!ってやつは、
別にどこか特定の場所にいったから変わる。みたいなもんじゃありません。

いろんな人の生活や文化にふれて、
「あー、こんなことも許されてるんだー!許されていいんだー!」っていうね。
そんな発見をすること。

これが人生観が変わるということなんだと思うんですよね。

人生観が変わるというのは、許されていることを知るということなのかもしれないですね。
知れば知るほど選択肢が拡がるんですよね。

となると、自分探しというものは、自分が自分を許すきっかけ探しと言えるのかも知れません。

 

全ては既に許されています。
自分を許さないのは、自分だけなんです。

選択肢ってね。限界まで拡げてやると、もう選択という概念すら
吹っ飛んでしまいます。

わざわざインドに行くまでもなく、あらゆる選択肢はもう許されているんだということを、
みとめてあげりゃーいいんです。

選択という行為は、優劣や正しいと間違いがないと成り立たないわけですが、
選択肢が限界まで拡がるにつれて、優劣や正しいと間違いといった観念は消えるんです。

そして、選択肢を拡げれば拡げるほどに、僕らは自由さを取り戻します。
なぜなら、自分を縛っていた優劣や正否という観念が消えて行くからなんですよね。

僕らはありもしないイメージ上の観念に自由を奪われていたんです。
この発見は結構驚きなんです。

だって、ホントにそもそも自由そのものだったんですもん。
そして自由であるからこそ、いろんな縛りもあったわけなんですけどね。

自由さが許されてるのと同様に、どんな縛りを課すのも許されてますのでねー。

僕らは、何かを判断するときに、比較という概念を使います。
比較というのは真実ではなく概念なんですが、これがいつしか真実っぽく見えてただけなんです。
そして、この比較の概念が、優劣や正否という観念を生み出していたんです。

あ、一応行っておきますが、概念や観念といった言葉を使っていますが、どちらも意味合いとしては同じようなもので、これらは認識するための条件のことです。

ただ、概念というのはどちらかというと外的で共通的なものであり、観念というのはどちらかというと個人的なものといった感じです。

なので、働きとしては同じです。

「時間を守らなければならない」というのは、共通的なものなので概念ですが、
もし、インドに行くとこの概念はどちらかというと観念になります。

インドではそれほど時間は守らなければならないものという思いが共通的ではないからですねー。

ま、そういうわけで、
あらゆることってホントは「どっちでもいい」んですよね。

僕らはどっちでもいいことについては悩みません。
この「どっちでもいい」というのは、まさに成功していることでもあるんです。

比較というのは、単なる分類でしかなく、そこに価値の差なんてものは存在しないんです。

価値という概念が、そもそも幻想なんです。

これは単なる好き嫌いなんです。

価値から目覚めれば目覚めるほど、元々の自由さもまた目覚めるんです。

 

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