Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ストーリーの本質

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ちょーっ!
わしのプリン食べたの誰やっ!

みたいなセリフが今もどこかで叫ばれてるんだろうなぁ。
なんて思うとグフフっと笑みがこぼれるたくさんです。

僕も子供の頃、うちの親父によく食べられました。

「ちょっ!わしのプリン知らんか??」
って親父に聞くと、
「さぁー、袋に入ってるんじゃないかなぁ???」
って言うので、必死の、どの袋や?これか?これか??

って探すんですが、
親父は笑みを浮かべながら、自分の腹を指差して、
「胃袋や!」
って言うんです。

子供ながらに、殺意というのはこういうものか!と初めて知った懐かしい思い出でございます。

おはようございます。
タクさんです。
みなさん。冷蔵庫にプリンをおいておく場合はしっかりと隠しておきましょうね。

 

さて、風が吹けば桶屋が儲かる。とかバタフライエフェクトといったような言葉がありますが、あらゆる働きは連綿とつながっていて、途切れることはないんですよね。

この働きは別に因果関係によってつながっているというわけではありません。
むしろ、因果関係というのは、この連綿とつながっている繋がりの一部分を切り取ってつじつま合わせの説明を加えているものに過ぎないんです。

連綿とつながっている働きを実際に切り取ることはできないので、
仮想のイメージの中で因果という概念をくっつけて切り取っているだけなんです。
因果によるつじつま合わせは部分的には正解のように見えるけど、それはそう見えるだけであって部分的には正解ですが、完全な真実ではないんですよねー。

そして、この因果による切り取りによって、時間という概念も生じるわけなんです。
そもそも因果というのは同じ時と場所に存在するのにもかかわらず、時間という概念を使って、前後関係が作られるんです。

・・・・
うん。
わかります。
・・・
ですよね!
ややこし過ぎますよねー。

この辺りの説明はここまでにしておきます。
文字だけで説明するのもちょっと限界を感じてきましたので
もし機会があればちゃんと図解で説明してみようかなと思います。

というわけで、とにかく僕らは物事を掴み取るのに、
原因と結果と時間経過という概念を使って掴み取るわけでして、
ここで、ストーリーというものが出来上がるというわけです。

「どうしてこうなった!!!こうなって、こうなった。」

といった具合にですねー。

そしてストーリーを作り上げる上で必要な「自分」という概念もここで作られるわけです。
自分というのは主体者であり行為者なんです

僕らはストーリーを通して世界を見ると同時に、行為者という概念を持つことになります。
原因と結果、そして行為者という概念は、あらゆる現象には原因があり、行為者がいるはずなんだ!
という思いを大前提に持つことになるんです。

なので、自分の生きる意味もどこかにあるはずだと当然のように思いますし、
この世を作ったのは誰なんだ?という疑問も持つということになるんですよねー。

そして、この世界は神が作ったというストーリーが生まれたり、この神はこの現象にどういう意味をもたせているのだろう?という謎も誕生するわけです。
そして、これらの答えを探すために僕らは探究を始めるというわけですね。

もちろん。
もともと行為者もいなけりゃ、世界を作った張本人もいませんので、
この探究は終わらない探究となるんですよね。

終わらせるためにはストーリーの本質を見抜くこと。
そこに尽きるんです。

えー。だったらどうやったら本質を見抜けるのよー。
ってことになるんですが、ま、それには観ることしかないわけですが、
観るためには一旦離れなきゃなりませんのでね。

原因や行為者への探求。この探究を終わらせる突破口となるのは、
まずは離れるということになるんです。

離れるためには、

わからんをわからんままにしておく。

つまりはわからんことを徹底的に許してみるんです。

まず、わからんままに落ち着いてリラックスしてみる。
これがコツなんです。

 

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