Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

意味なんて無意味。

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はーい
おはようございます。
タクさんです。

まー、僕らは子供の頃から、
コレは良いよ。
コレはダメっ!

ってねぇ。
教わり続けてきたわけです。

忘れもしません。
まだかなり小さい頃、お金を持って駄菓子屋に行って、
ほしいものを持ってお金を払ったら、
「これじゃ、買えないのよ!」
とこっぴどく怒られました。

きっと、十円玉あたりを渡して、百円のものを買おうとしてたんでしょうけどねー。

その時は、お金を渡したらもらえると信じて疑ってなかったのと、
お金に、違いがあるなんてことも知りませんでしたのでねぇ。
駄菓子屋のおばちゃんが言ってることが、ちんぷんかんぷんだったことを覚えています。

まあ、そうやって、元々はなかったあらゆる意味を僕らは身につけてきたわけです。

数字を知らなかった僕は十円玉も百円玉も同じようなものだったし、
お菓子に値段の違いなんてものもなかったんです。

それは小さいからものを知らなかった。というよりは、
まだ、そういう架空のルールに乗っかっていなかったということです。

ルールに染まっていなかった。
ということです。

子供が見ても、サルが見ても、ネコが見ても、
全く何でもない「ひゃくてんだま」に、「百円」という意味をつけることによって、
百円というルールが生まれるんです。

このルールに染まると、百円をもうその辺の石ころのように扱うことはできなくなります。
それは、このルール上、価値があるということになるからです。

意味がつくことによって、価値が生まれるわけですね。

これが、あくまでもルール上のことであり、この価値は真実ではありません。
ですが、僕らはこのルールに染まることによって、ルールと真実がごちゃ混ぜになってくるわけですね〜。

 

まーそうやって意味を掴み取り、ルールに染まっていくに従って、
自分の能力や自分の趣味。
さらには自分の楽しみさえにも意味の担保を求めてしまうようになったりするわけです。

意味の担保を求めるというのは、どういうことかというと、
価値を得なければならないという強迫観念のようなものです。

意味がなければ、これを持っていても無価値である。
という観念ですねー。

そしてどんどん僕らは、ルールと意味付けの奴隷になっていくんです。

自分自身よりも、意味の方が重要だという錯覚に陥ってしまうんですよねん。

意味なんてね、実は無意味なんですよ。

そして、価値なんてものも無いんです。

ということは、自分の好き嫌いで遊べば良い!
ほんとそれだけなんですよねー。

意味への依存が残っていると、意味がないという言葉は虚無的に聞こえるかもしれません。

でも、意味への依存から解放されると、意味や価値から自由になるんです。

自由になればなるほど、僕らはのびのびと遊べます。
そして、ああ、そういえば以前はそうやって遊んでいたよね!ということを思い出すんです。

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