ほーい。
おはようございます。
タクさんです。
まー、しかし。なんですなぁ〜。
僕らがきっと見落としてがちなもの。
それは思考にどれほどのエネルギーを使っているのか?
ということなんじゃないかなー。
ってね。
思うんですよねー。
重労働や、走ったり、重たいものを持ったり。
これは、やりすぎると疲れるなぁ。
ってね。
想像できると思いますが、
何かについて考えること。
これについてのエネルギーには無頓着なんじゃなかろうか?
って思うんです。
ここに無頓着だから、暇さえあれば
なにか心配事はないか?考えておくことってなかったっけ?
ってね。
考えの種を探し出したりしてねー。
また、特に思考が好むのが、不安の種だったりするわけでして、
せっせと不安を探したりもするわけです。
不安であればあるほど、深刻に考えますのでね。
そうやって考えを続けることで、なぜか前に進めているといった安心感も感じちゃったりしてね。
「私」という存在も「時間」も「生と死」も、
この考えの中にしかありません。
なので、考えを止めることに一抹の怖さもあったりするんですよね。
ちなみに、考えは言葉がないと前に進みません。
なので、考えと言葉はセットになっているわけなんです。
さて、
この地球上で、これほど複雑な言葉を使っているのは人間だけです。
人間というのは、生物の中の一形態に過ぎません。
生物の一部である人間だけが言葉で遊んでいるだけなんです。
地球も宇宙も、一切言葉を必要としていませんし、言葉がなくなっても困りません。
ここでちょっと地球上から一切の言葉が消えるっていうのを想像してみてください。
一切の言葉が意味を失うんです。
すると、言葉は本来のただの音になります。
そして、文字はただのシミです。
これこそが本来のあるがままの姿です。
僕らはここに、有りもしない意味を付け加えて、思考を働かせる材料にしていたわけですが、この材料には一切の実体はないんですよねー。
言葉が本来の音やシミとなるとき、思考は働きを失います。
そして、もともとここにあった静寂が蘇るんです。
この静寂に溶け込むとき、思考にどれほどのエネルギーを使っていたのか!ということを知ることになります。
それはそれは、膨大なエネルギーなんです。
考えを続けていたなら、病気になります。
ストレスとはずっと何かを考え込むことで起こっているんです。
「えー、うそーん。実体のない意味付けにこんなに膨大なエネルギーを使っては、
自分を疲れさせていたの???」
っていうね。
そんなことに気づくんです。
そして、こんなに疲れながらも考え続けていた自我ちゃんという働き。
働きアリよりも懸命なこの自我ちゃんの働きに、健気な可愛さを感じたりもするわけです。
自我ちゃんのもつ健気な可愛さを見出したとき、思考にまとわりつく深刻さはなくなります。
本来の可愛さが目覚めてくれるんです。
すると、もう思考はそれほどエネルギーを食うことはなくなってくるんです。