Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

信じることと真実

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はーい。
おはようございます。
タクさんです。

ぼくらが現実だ!って思ってる世界っていうのはねー。
ある種、信じているものだと言えるのかもしれませんね。

この会社に勤めている。
という場合は、この会社は実際に存在していると信じて疑わない。
ということになります。

うたがっていないので、信じていることすらも、忘れちゃってるんですよねー。

同様に、
「自分」という存在。
そして、私がいてあなたがいて、
今日という日があって、明日という日がある。

こういうのも、もしかしたら、知らないうちに信じていることなのかもしれません。

そして、信じていることと、真実というのは別物なんですよねー。

私はいないとか、
本来は至福である。
時間は存在しないとか、
全てしかない!あるのはそれだけ!だから分離は存在しないだとか、、、
こーゆー言葉もねー。
僕は信じない方がいいと思うんですよね!

ちょっ!!
オマエは何を言っているんだ。
私はいないも、
本来は至福であるとか、
分離は存在しないとか、

これらはオマエがいつもゆーとることやないか!!

ってねー。
思われるかもしれませんが、
なぜそれを信じない方が良いのか?

今日はこの辺について書いてみたいとおもいます。

 

なぜこれらの話を信じないほうがいいのか?
と言いますとね

この話を信じた途端にね!
これらの話は、
なんか、ファンタジックなものにたちまち変化しちゃうからなんです。

もちろんね。
ウソだから信じるなと言ってるわけじゃ無いんですが、
そもそも、真実というものは、信じるものじゃないんです。

真実とは有無を言わせない確信ですのでねー。
そして確信とは、信じるものではありません。

ですのでね。

真実は信じた途端ファンタジーに成り下がってしまうんですよねん。
それは一見とても眩しく見えるかもしれませんし、
とても魅力的にみえるかもしれません。

また、自分の行く末の道筋を照らしてくれるようにかんじるかもしれません

はたまた、真実の確信は、一見つまらなく、退屈で、特別感の無い寂しさを感じるかもしれないんですよねー。

そして、ファンタジーがとても魅力的に感じるのも、
真実が退屈に感じるのも、
どちらも幻想です

僕らが、つかみ取ったものの全ては、幻想なんですが、幻想のウソは、掴み取ったものの中にあるわけではなく、つかみ取る際に採用したルールが幻想なんです。

掴み取ったもの自体は、真実とは切り離されておらず、真実そのものでありながら、
掴み取る際に採用されたルールのほうに、実体がないということなんですよねー。

 

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