Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あなたの家はない???

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ほーい。
おはようございます。
タクさんです。

最近ねー。
よく聞かれることがありまして、
それは、

「とある先生が言ってたんですが、
あなたは今、家からここまで来られたと思うんですが、実は今、あなたの家はないんです!!!
みたいなことを言われたんですが、本当ですか??」

といったような質問です。

くはっ!
なんともファンタジックですよねぇ。

というわけで、今日はこの辺のことについて書いて見たいと思います。

 

ま、そんな質問を受けると、ついつい、
その会場に来たはった人たちはどんな気分でみんな家に帰ったんやろう???
ってちょっと想像しちゃったりして、クスっとしちゃうわけですが、
そして多分、その先生も家に帰ってはるやろうし、、、。

もちろん、先生が嘘ついてるってわけじゃないんですけどね。
ちょっと端折ってるだけなんです。

まあ、ほら、
僕らの思考ってね。

「ある」のか「ない」のか。
っていうことに随分こだわっちゃうんですよね。

「ある」と「ない」というのは、
思考の中だけに適応されるルールでしかなくて、
実際には、「ある」も「ない」もないわけです。

そして、そんな「ある」も「ない」もない中、
思考のほうでは、「ある」と「ない」を区別してるというわけですが、
実際のところは、「ある」しかないはずで、
「ない」ものは考えることすら不可能なんですよね。

なので、あなたの家も、あるでもないでもなく、
家から離れているのなら、その家は、記憶のイメージとしてしか存在してません。

僕らは、実在するとみなしているものも、脳内でイメージ化されたものを見ているに過ぎないんですよね。

目の前の椅子。
この椅子は椅子ではありませんが、僕らの心は見てきたものや聞いたことでできていますので、
心は椅子だと判断します。

なんでもないものを心の中だけで椅子としているというわけです。

この心の世界というのは、実際のありのままの世界とは違うということです。

家も、
日本という国も、
アメリカという国も、
この心の世界を共有している人の間でだけ、
あるということにしてあるだけです。

そして、このあるということにしているものは思考であり、イメージなんですよね。

思考は言葉とセットで機能します。

思考は言葉を生み、言葉はまた、思考を生みます。
そして、思考と言葉は、感情を生み、感情もまた思考や言葉を生み出します。

感情や思考や言葉は、実感としての体の感覚さえ生み出します。

僕らが怖いイメージを抱いている時、体はその怖さでこわばります。

ものすごく酸っぱいレモンを絞って、一気飲みすることをイメージすれば、
口の中はつばでいっぱいになりますよね?

僕らのイメージは、現実感が増せば増すほど、より感情や体の感覚も強まり、
現実として振舞ってくれるんです。

僕らが見ている現実とは、このイメージの中の現実感が増されたものなんです。

逆に、イメージが全く働いていない時は、現実は消え去ります。

なので、熟睡している間は、現実はどっか行っちゃってるんですよね。

ま、この辺のことを、ちょっとしたつかみとして、
エンターテイメント的に表現したものが、

「あなたの家は、ないんですよ!」

という表現になっているだけですので、よくわからんのなら、わからんままにしておいていいと思うんですよね。

いずれにしても、言葉の中には真実はありません。

そもそも、言葉自体が、分離の概念を前提に作り出されているツールであり、
この言葉が、思考や感情や感覚をストーリー化させている張本人でもありますのでねー。

ストーリーの中に真実を求め、ストーリーをさらに探求しても、
それは単にストーリーを展開させているだけであって、
それだと、そのストーリーの中から出られませんもんねぇ。

なので、わからんの中に、リラックスしたらいいんです。

言葉からちょっと距離を置いてリラックスするという感じです。
すると、

「ありゃまっ!信念も苦痛も、足りないも、ぜーんぶ思考が作り出したイメージの中にしかないじゃん♪」

ということが、明らかになってくるかもです。

苦のない「すべて」の中で、ストーリーを共有して遊ぶこと。
これが人間の自然の姿、生まれ持ったクセだったというわけです。

クセをクセとみなす時、ちゃんと「ありのまま」が姿を表してくれるんです。

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