Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「それ」へのいざない

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僕らは起きている間は、どうしても、何かを理解することによって掴み取るというクセが強く働いてたりするんですよねー。
ちなみに、思考というのはこの理解することによって掴もうとする働きのことを意味します。
思考が起こっている間は、何かを掴み取ろうとしているということなんですよね。
だから、思考によって掴むのをやめようとすることってできないわけなんです。

だから、どうしてもこの働きを止めることができないー!
なーんて思いがちなんですけど、

夜になったら、あっさりとこの働きを止めて、寝るわけです。

グゥー。グゥー。ってね。

思考の中、働きの中では、とんでもない重要な悩みがあったはずなのに、
夜は、そんなのもほっぽり出して、スヤスヤスヤー♪
って寝るんですよね。

もう、みんな。
かわいすぎです。

 

そういうわけで、思考っていうのは働きですので、
思考が思考を手放すことはできません。

そして、「自分」という概念も、これまた思考の中だけにしかありませんので、自分が思考を手放すことはできないんですよね。

そう。
「自分」って思考の一部なんです。
「自分が思考をコントロールしている」なんていう思いも、これまた、思考の一部なんですよね。

なので、「自分」は思考をコントロールすることも止めることもできないわけなんです。

靴が、靴を脱ぐことができないのと同じような感じですねー。

「それ」が訪れるのは、僕らがスヤスヤと眠りに入る寸前に似ています。
普通に起きたままでも、すーっと、思考の働きがやんだ時、
そのリラックスの中に在ることができるんです。
そして、今まで思考の世界を、世界としてみてたんだー。ってなことに気づくわけです。
朝起きた時に、夢を見てたんだーって思うのと似てるので、「目覚め」と呼ばれたりするわけです。

ただ、誤解が多いのは、その状態を保つとか保たないとか。
そういう話ではないってことなんですよね。

そのリラックスに在る時、あ、思考でコントロールしなくてもちゃんと起こることは起こっていて、そして、それで大丈夫なんだ!
ということが明らかになる。

それだけの話なんです。

そして、それが明らかになったところで、
やたらと思考にまみれることもあるかもしれません。
でも、それがダメってことじゃなくて、

それならそれで、全く、完璧にオッケーなんだ!
ということを知ることなんです。

だから、自分がどうにかなるわけじゃないんですよねん。

ただ、
どんな思考が起きても、それでいいんだー!
ってね。
許せちゃうと、なんていうか、
思考に対する重要度。みたいなもんが減ってきますのでね。

それほど、思考の言うことにパワーがなくなってくるんですけどねー。
ま、この辺のことは、副作用みたいなもんです。

思考もまた「それ」そのものなんです。
そして、そのことを知るともう思考への過度の依存がなくなってくるって感じなんですよねー。

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