Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

「私」という後付けされた観念と自我の芽生えのハナシ。

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ほーい
おはようございます。
タクさんです。

今日はねー。
自我ちゃんについて書いてみたいと思います。

自我ちゃんといえば、自我の芽生えってあるじゃないですか。

お子さんをお持ちの方なんかはよくご存知なんだと思うんですが、
赤ちゃんが2歳から3歳くらいになると、第一反抗期に入ったりしてね。
「うちの子も自我が芽生えちゃって、反抗期で困ってるんですのー。」
なんてね。
そんな会話がお母さんたちの中であったりする訳ですがねー。

ほら!
もう、ここでね。
自我っていうのは、後天的に付け加えられた機能なんだ!
ってねぇ。

認知されてるじゃないですか!

私というのは、この自我のことですからね。

 

この自我が芽生えることで、私以外に他人がいるという機能が備わるわけです。
さらに思春期になると第二反抗期と呼ばれる時期があったりして、より自我が確立されるという訳ですが、
中二病をこじらせたりするのも、さらに自我を確立するために、
自分をより特別な存在に演出したい!という願望からくるのかもしれませんね。

ま、そういうわけで、自分という観念は後天的に備わった一つの機能である!
ということはもうネタが割れておる!ということです。

つまりどういうことかと言いますと、
自分が生きているのではない!ということですね。

この機能が加わる以前から、ちゃんと生きている訳なんですからねー。

生きている「生」に後付けで加えられた機能。
それが自分という観念だというわけです。

そしてその観念が、自分を確立すればするほど、
自分と他人という分離は色濃くなり、
自分とその他という世界だけに埋没していくということなんですねー。

で、自分はその他と分離をすることによって、その他から自分を守らなきゃならなくなる訳です。
そうなりますと、自分をより高めることで安心しようとするんです。

だから、その自分は、観念ですよ。
後付けなんですよ!
とか言われると、人によっては危機感を覚えるんです。

せっかく自分をせっせと高めてなんとか上手くやってきたのに、
それが実は観念でしかなかったんだとしたら困りますからねん。

またね。
逆に、「私はいない」という言葉を、
今の自分の危機から救うものだとして手に入れようとしちゃう場合もあったりします。
「私はいないのだから、私の苦もホントは無いはずだ!」
つまり、「私はいない!」を理解することで、私は苦から解放される!

っていう考え方です。

これも、結局は「解放された私」を望んでいる時点で論理が破綻しちゃってる訳ですので、「私はいない」を手に入れようとすればするほど、迷いの道にはまり込んでしまうんですよね。

知るのは、
「自我というのは後付けされた観念だ。」
ということですし、
本来は意識である「それ」しかない。
ということだけですのでね。

私が消えたりいなくなったりするということではないんです。
そもそも、実体として無いってはなしですのでね。
ただ、イメージ上であるという事にしている。
これが観念であり、
人は機能として後付けでその観念が備わるクセを持っている。
ということなんです。

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