Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

気づいている意識の気づき方

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あるのは意識だけです。
その意識が何かに気づいた時、気づいている意識となり、
気づかれたものと意識はもともと同じものです。

そのきづかれたもの(対象)に、よりフォーカスされると、
いつしか、意識は無意識となり忘れ去られ、
フォーカスされた対象だけが際立ってくるんですねー。

無意識になるとはいっても、意識が消えてなくなってるわけじゃなく、
単にフォーカスされた対象に意識が隠されているだけのことであって、
やはり、あるのはその気づいている意識だけなんですよね。

気づいている意識と気づかれている対象は別に離れているわけじゃなく、
一つのものです。
その対象に意味付けがされた時、レッテルが貼られた時、
初めて対象として成り立ち、気づいている気づきと対象が分離されるわけです。

 

分離はコインの表と裏のように分かれ、対象にフォーカスされた時、
気づきの意識は隠されます。
コインの表を見れば、裏が隠される。
みたいな感じですねー。

さて、僕らは普段、
フォーカスされた対象だけを見ることにもう慣れ切っているんですよね。
その対象を見ているときは、実は対象自体を見ているんじゃなくて、
そこにつけられたレッテルを見ているんです。

これは椅子だ!と思ったのなら、もう椅子としてしか見てない。
みたいな感じですね。

単に見てみるというのは、椅子というレッテルを見ずに、そのものを見てあげる。
っていう感じです。
それには、レッテルとなっている言葉を一旦おいておくんですね。

単に見るにはリラックスが必要です。
僕らがリラックスしていないという状態はどういう状態なのかというと、
思考と言葉がストーリーを作り出し、そのストーリーがまた新たな思考を作り出し、と言ったように、どんどんとアタマの中のストーリーが展開しているような状態です。

このストーリーも、一切の言葉を置いておくと、展開することができなくなります。

すると次第に、言葉で限定されていない、対象のそのものが姿を現してきてくれます。
すると、ただそれに気づいているということも見えてくると思うんですよね。

瞑想でも座禅でもリラックスでも目的は一緒です。
それは、単に気づいているという意識。
そこに戻ることなんです。

だから、瞑想や座禅で何か新しい境地に到達するということではないんですねー。

時間という概念も、
私という概念も、
分離という概念も、
これらも全部、思考と言葉のストーリーの中だけにある概念です。

そこから離れてみる。
距離をおいてみるんです。

それが単に見てみる。
ということなんです。

見てるということは、そこに距離が生じますよね。
そこで、
あ、単にイメージしてただけだったのかー。
ということに気づくんです。

そして、どこまでいっても、あるのはこの気づきだけがあることを知るんです。
気づかれた対象はころころと変化を繰り返しますが、
この、気づきの意識は、変わりようがなく在りますからね。

ちなみにこの「在る」というのは、状態ではありません。
状態は、コロコロと変わるストーリーの中にしかないんです。

瞑想や座禅でよく起こる誤解は、手放した状態をキープしようとする思いだったりするんですけどね。
それだと相変わらずストーリーの中で何をキープするのか?
というような戦いになっちゃいますからねー。

ああ、状態としてキープしようとする動きもまた、
起こっとるのねー。
って見てあげたらいいんです。

そして、気づいている意識は、その対象と溶け込みます。
意識と対象は同じものですからね。

そして、どこまでも意識しかないという事実に降参するんです。

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