Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

【飽きたは錯覚】「今」は常にかけがえのない輝きである

はじめに

はいどうもー!
今日も今日とて書いていくわけですが、
たまにね。
「飽きもせずによく続けられるねー!」
ってなことを言われたりするんですけどねー。

ま、飽きないんですよ。コレまた。

飽きるってねぇ。
錯覚なんですよね。

同じことをやっているって思うとね。
それが飽きにつながるんだと思うんですけどね。

僕のこのブログにしたって基本的に同じことをずーっと書いているわけですが、
実は同じじゃないんです。

なんなら、全くおんなじ文章を書いたとしてもやっぱり同じじゃないんですよね。

この、前と同じということ自体が錯覚なんですよ。

この錯覚のせいでねぇ。
せっかくの素晴らしいものをたくさん見失っていると思うんですよね。

いつも食べている食事にしたって、いつもと同じもので同じ味って思ったりするじゃないですか。
あれもねぇ。嘘なんです。

僕らが日々、触れるもの。感じること。
これね。
全て新しいんですよね。
そして、もう最後なんです。

すべて一期一会なんです。

そう思うと、いつも通りでつまらないと感じていたものも、一層輝いてきませんか?
そして、この輝きこそ、あるがままの姿なんです。

 

・僕らが使っている解釈ってガバガバなんです

「いつも同じ風景だぁ〜。」とか
「あー、今日もいつも通りの仕事だぁ〜。」
みたいなのって解釈なんです。

僕らの思考ちゃんは、なんにでも解釈を当てはめるんですが、この解釈の幅がもうガバガバなんですよ。
なので、大体似てる!って感じたら、すぐに同じ解釈をあてちゃうんです。
そうすると、同じ解釈ばかりになっちゃいますからねー。

なんだか変わり映えのしない毎日だなぁ〜って感じの錯覚を生み出すんです。
それがつまらない解釈だった場合は、灰色の景色のように感じちゃたりするんです。

そして、本当の輝きやワクワクを消し去ってしまうんですよね。

僕らの日々の考え事の90%は昨日も考えていたことだと言われてたりするんですが、
大体いつも同じような解釈の中で僕らは生きていると言うことなんですねー。

ですが、実際の目の前の世界の様相は、常に新しい世界なんです。
それはとてもみずみずしく、そして儚いものでもあります。

・「今」はかけがえのない輝きである

もし、このお茶漬けは、初めて食べる味だ!としたなら、
その味わいはとてもワクワクしたものに変わるかと思います。

また今日食べるこのお茶漬けが今生の最後のお茶漬けだとしたら、
その味わいってとってもかけがえのない素晴らしいものに感じられますよね!

そして、これは本当なんです。
あらゆる物事、あらゆる体験、そしてあらゆる味わい。
それは、初めての体験であり、それでいてもう2度と出会うことのない体験でもあるんです。

だからこそ、なんてことのないような今も、正しく見てみると、
それはとてもかけがえのない「今」なんです。

・飽きは錯覚

正しく見るってどゆことー?ってことなんですけどね。
それは、解釈を通さないということです。

僕らが持ってる解釈のラベルって、結構ワンパターンですのでね。
持ってる解釈のラベルを張っちゃうと、せっかくの「今」が台無しになってしまうんです。

ラーメンに砂糖をたっぷりかけちゃうみたいなものですね。

そして、僕らはワンパターンのラベルに飽きちゃってますからねー。
なんだか、飽き飽きしたつまらない現実かのように見えてしまっているんです。

僕らは実際の日常に飽きているわけじゃなく、思考の解釈に飽きてしまっていると言うことなんですねー。

 

 

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