Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

何があっても大丈夫!な理由。

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「何があっても大丈夫」とかねー。

ゆーよねー。

というわけで、おはようございます。
タクさんです。

よく聞きますよねぇ。
何があっても大丈夫!とかねぇ。
え?僕もゆーてましたっけ?
ちょっと忘れちゃいましたが、言ってたかもしれません。

実際、何があっても大丈夫なんですが、
ただ、何があっても大丈夫な自分になるっていうのはちょっと無理ゲーなんじゃないのかな?なる必要もないですし。。。

って思うんです。

何があっても大丈夫なのと、何があっても大丈夫な自分を作るっていうのは、違う話なんですよね。

僕もねー。何があっても大丈夫だと聞いた時は、何があっても大丈夫な自分になれるんだ。って思ったんですよね。

そうなったならもう無敵じゃないですか!
なので、なんとしてもそれをマスターしたい!って思ったんですけどね。

どうも、そういうことじゃなかったっぽいんですよね。
今日はその辺のことについて書いてみよっかなーと思います。

 

よくね。
こういう問いに対しては、
自分っていうのはいないんですよー。
だから何があっても大丈夫なんですー。
安心していいんですー。

なんて言われてたりするわけですが、
自分がいないのなら誰が安心するのや!
って思ったりもしてたんですよね。

自分がいないのなら、なんで安心できないことがここにあるのや?
ってね。

まあ、この表現は全然間違ってないんですが、捉え方がちょっとズレてたから迷っちゃってたんですよねー。

実はね。
ここで言われている「安心していい。」っていうのは、
条件付きの安心じゃなかったんですよね。

で、この条件っていうのが、自分という存在やったんです。

ん???
ちょっと話が飛躍しすぎてわからない!
ってなりますよねぇ。

僕も一瞬???ってなりました(笑)ので、もう少し詳しく書いてみます。

自分も含めてあらゆる思考も条件なしでは存在しないんですよね。
条件っていうのは、「これはこういうこと」といったような決め事のようなもんです。

自分という存在は、「自分とその他という分離があるということ。」
っていう条件で成り立っています。分離という条件がなければ自分は存在しません。
つまり自分というのは条件に依存してるんです。

そして、「これはこうあるべき」という考えも全て条件なんです。
その条件に従って、安心と不安が起こるわけです。
不安というのもまた、条件に依存しているんですよねん。

条件がなけりゃ不安は存在できないというわけです。

そして、そのあらゆる条件っていうのは、おままごとのルールと性質は同じなんです。深刻さの強さの違いはありますが、この深刻さというのは、条件とどれくらい同化しているか?の違いでしかないんですよね。

ちなみに安心っていうのは、不安には依存していませんし、条件にも依存してません。
なので、条件を取り除けば、安心が残ります。

条件を満たしているから安心しているというよりは、不安がないから安心なんですよねー。
つまり、不安は条件がなきゃ存在しませんので、条件がなきゃもう安心しかないというわけです。

これが無条件な安心なんです。
実際、安心には条件ってないんだよーってことなんですよね。
つまり、条件付きの安心を僕らは求めているように見えて、実は条件によって起こる不安の方を見ていたんですよね。
そして、それを見ているから、その景色がイメージとして起こっている。

「見るから見える。」

ってことも起こってるわけです。

これが、引き寄せの法則などで言われているとってもシンプルな原理なんです。
そして、不安を払拭しようと、その不安が解決したイメージをして安心を引き寄せようとしてもなかなかうまくいかないパターンが多いのも、結局、その土台にある条件に縛られてるから、ということにもなるんですよねー。

ちなみに、どうでもよくなると条件は存在できなくなります。
なので、安心が露わになるんですよね。

また、自分という存在もまた条件に依存して起こっている観念ですので、

この観念が無条件さを手に入れることは不可能なんですよねん。
なので、何があっても大丈夫な自分というのは、無理ゲーなんです。
条件が無条件を受け入れることって矛盾してますのでね。

「何があっても大丈夫な自分」っていうのも、
そもそも、何かが起こっていて、それを自分が受け取っているっていう考えが土台にあるわけですが、自分っていうのもまた現象の側におるわけですのでね。

「何があっても」の何かの現象というものの中に「自分」含まれておりますのでねー。

「何があっても大丈夫」は自分を一旦置いておいて、
「大丈夫じゃなくてもええやん!」っていう許しによって開かれていきます。

これって、自分がそれを許すのではなく、すでに許されてたことへの気づきなんです。
その気づきの中で、条件づけが起こり、その条件の中で時間が経過し、その条件の中で、許せると許せないが付け加えられておったんです。

できることは、それを単に見ることなんです。

条件づけもまた、人の本能として起こる自然現象ですので、それを封印することはできません。
怪我をしたら自然治癒の原理が働くのと同じく、大事な機能なんです。

ただ、そこに付与されていた深刻さは見られることによって、役割を終えていくんです。
「あら、バレた?」
ってな感じでねー。

深刻さがないから泣いたりしないわけじゃなく、悲しみも、怖がることも、嫌なことも、普通に楽しく起こってくれるんです。

それで、大丈夫なんですよねん♪

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