ラマナさんっていうインドの有名な聖者さんは、
全ては至福である。
ってゆーてはります。
ここで言う全てとは、文字通りの全てなんですよねん。
一見ね、
ラマナさんのような聖者な人にだけ、
全ては至福である。
っていうなにか究極の世界が見えとるんやろう。
悟った人にだけそれが見えるんやろう。
って思いがちなんですけどねー。
そう言うことやないんです。
もう、僕らが見てるもの、それがデフォルトで至福やというわけなんですよねん。
アホな事いいなや!
不安やら恐怖やら、心配事やら色々あるがな!
それのどこが至福やっちゅうんねん?
って思われる方もおられるかもしれません。
でも至福ってね。いわゆる僕らが想像するような幸せということやないんですよねん。
どういうことかと言いますとね。
喜びと悲しみその双方がもうそれで命の表現なんです。
そしてその命の表現は無条件の至福やというわけなんです。
ん?
ちょっとよくわからない。
何言ってんのかわかんない。
って思われる方もおられるかもしれません。
つまりは、喜びが良くて悲しみがダメっていう判断って、単なる後付けされた観念であって、どちらが良くてどちらがダメなんてもんはあらへんのやでー。
ということなんです。
赤ちゃんは生まれてすぐにする事は、泣く事ですよね。
そしてその泣き声こそが命の喜びなわけです。
赤ん坊はなんやかやよく泣きますね。
それで良いし、それが良いわけです。
多分赤ちゃんも、
「悲しみたくないけど、でも、、、でも、、、涙が出ちゃう。。。」
なんて思ってませんし、
「やだなぁ、、、泣きたくないなぁ・・・」
とも思ってないんですよね。
そのころは泣くことは辛いことやなかったんですよね。
自然な表現だったものが、
いつしか、泣くのはあかんという観念が後付けされちゃったんです。
そしてあらゆる観念がいつしかリアリティを帯びて、
悲しみや不安、そして後ろ向きな考え方がダメなもんだとレッテルを貼られちゃったわけなんです。
そしてその観念を採用するが故に、悲しみや不安、ネガティブなモノは、
いて欲しくないものだとしちゃってるわけなんですよねん。
自然に起こるものに優劣はありません。
雨も良ければ晴れもよしなんです。
起こるべくして雨は降り、起こるべくして空は晴れわたります。
自然に流れる水を無理にせき止めると、水は氾濫を起こします。
同様に起こってくる感情を無いものとして蓋をし続けると、
心や身体は病気になっちゃったりもします。
せき止めとるで!って言うサインとしてねー。
感情に優劣はないんです。
この優劣のなさを許せてあげちゃうと、残るのは、今まで思ってたような、
不安があってこその幸せじゃなく、無条件の幸せが残ります。
ま、最初っからあったものとも言えるんですけどね。
それが「全ては至福だ」という言葉の指し示す意味なんです。
不安や悲しみの原因と思われるものを取り除くと悲しみが消えるという思い込みがあったりするわけですが、
全てが許されると、悲しみの中に根本的な原因があるわけじゃなく、単にその判断をしているということが、それを悲しみとし、その悲しみの原因を作り、そこからストーリーを展開してたんやねー。っていう流れも見えてくるんですよねん。
感情や思考に優劣はなく、起こることに優劣もないんです。
そんななかで、存分に泣いて笑えば良いんですよねん。
その泣き笑い。それが至福そのものの姿やったわけなんです。
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