Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自分を遠慮なく表現する。

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オモロイを表現したら良いんですってね。
よく言ってるわけなんですけど、
ほら、スターウォーズなんかの街のシーンでね。
いろんなヘンテコな宇宙人が
歩いてるシーンがあるじゃないですか。

それぞれのキャラが立っててね。

なんか、あんな感じの雰囲気が好きなんですよねー。
よくわからんと思われるでしょうけど、

ま、みーんなが自分のオモロイを自由に制約なく表現できたらオモロイのになー
っていうね。
なんかそういう雰囲気がねー。好きなんです。

 

私はいない。
全ては幻想だ。
人生に意味はない。

みたいなね。
そういうことがよく言われてたりしますし、
僕も言ってますけど、
この言葉を言葉通りに受け止めなくて良いと思うんです。

なんかこの言葉が、一人歩きしちゃったりして、
私がいないし意味がないのなら何もする気が起きないじゃん。
みたいなね。

でもそういう虚無的な話じゃないんですよね。

それよりも、
この言葉はどちらかというと、
オモロイを表現するのに、
「私」という概念に縛られて小出しにしなくても良いし、
思い込みという幻想に縛られて表現を薄めなくても良いし、
意味とか人生とかいうものに縛られて小さくまとまらなくても良い。

っていうことなんです。

赤ちゃんはまわりの世界を、概念や知識に縛られずに、
本来の未知のまま、未知を味わっていますよね。

僕らは何かを知ることによって、その未知を忘れちゃってるんですよね。

もちろん知ってることを排除するということでもないんですけどね。

知ってるにこだわらなくて良いわけです。

知ってるにもまた、未知にもどちらにもこだわらなくて良くてですねー
未知でいなきゃいけないとなると、それもまたこだわりですし、

私はいないんだからー。
とか、
幻想だからー。
なんてことにもこだわる必要はないわけです。

それが正しいというわけでもありませんからね。

何が正しくて何が間違いなのか?
っていうことにすらこだわらなくて良いんです。

するとそこに残るのは、元々ある広大な自由と、
レッテルが貼られていない命の表現、
そして、その命はどこにも境界線がなく、
有機物と無機質という区別すらなく、
繋がった一つの表現であり、

起こっているのか、無なのか?
といった区別にすら縛られなくても良いんだと見抜かれちゃいますと、
もう残るのは、
全部であり、そのものであり、それであり、自由であり、未知なんです。
そして、密接でダイレクトなので、愛と表現されたりもするわけなんです。

思うがまま鼻歌を歌い、
いろんな観念があってもそれを許し愛でてあげちゃう。
そんなん許せるわけないよー。愛することなんてできないよー。
って思うなら、その思いも一緒に抱きしめてあげちゃいますとねー。
「そのまんまのそれ」入り口が開いてきてくれるじゃないかなーって思いますよ。

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