もしね。
自分の使命があるんだとしたら、
その使命って何だろう??
なーんてね。
そんな思いにふけることもあったりしますよねー。
そんな使命がね。
あるんだとしたら、どういうものなんだろう?
ってな話を今日は書いてみたいと思います。
もしね。
自分の使命があるんだとしたら、その使命ってね。
最低条件として、
自分ができること。
であるはずですよね。
運動神経めっちゃ悪いのに、陸上世界記録を出すこと!
が使命として与えられてるはずが無いっていうかね。
もしかしたら、できないと思ってるだけのことで、
ほんとは出来ることだったりする場合は別なのかもしれませんけどねー。
基本は出来ることなんだと思うんです。
出来ると思ってることじゃなくて、出来ることですね。
そして、もし使命があるんだとしたら、
その使命を行えるように整備されてるはずですよねぇ。
そうじゃなきゃ、使命として機能しないわけですから。
だとしたら、それを「やりたい!」って思うことであるはずなんです。
じゃなきゃ、使命が機能してきませんのでね。
つまり、オモロイこと。
それが使命だというわけです。
つまりはオモロイことをやってりゃもうそれで、
人生の使命を果たしていることになるってわけです。
でもそのオモロイことっていうのも、
条件をつけちゃったりすると、ちゃーんと出てきてくれないんですよね。
条件っていうのは、
こういうことをやっちゃうと、叩かれるかもしれない。
バカだと言われるかもしれない。
恥をかくかもしれない。
うまく行かなかったときのことを考えると怖い。
社会人としてどうなんだ???
みたいなことですね。
そういう条件に縛られちゃうのだとしたら、
その条件が使命を妨げてるとも言えるんですよねー。
そういった条件も結局は、こうでありたいと思っている自分。
もっというと、偽の自分を演じるために必要なことだったりするんですよねー。
だとしたら、今この瞬間に起こってくる
「〜であるべき」という条件付け。
この条件付けを手放すこと。
そして自身の中にあるオモロイを表出させていくこと。
それこそが、人生の使命なんだ。
なーんてことも言えるのかもしれませんね。
ただややこしいのは、条件付けが起こることを手放すには、
それが起こることすらも許してあげないとうまくいかないんですよねん。
そうじゃないと、
条件付けは手放さなければならない。っていう条件をいつまでも持ち込んでしまっちゃったりしますからねん。
条件付けは、条件付けとしてただ起こっている。
それを認め許してあげる。
そして、その条件付けがどのように起こっていようとも、
その条件に自分を当てはめなくても良いんだよねーってことも許してあげますとね。
そこで、条件付けは機能を失っていってくれるんですね。
認めて、そのまんまそこに居させてあげると、
いつのまにか手放されちゃってる感じなんです。
そやって条件を気にせずにしておいてあげると、自然とオモロイ(才能)が開花してくれるんですよねん。
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