Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

自我ちゃんも宇宙の一部であり、宇宙そのもの

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自我ちゃんってね、いわゆる欲求による衝動みたいなもんなんです。
つまり自我ちゃんはある種の働きであって、固有名詞ではないんですよねん。
動きですのでね。
動詞なんです。
働きであり、作用なんですよねー。

それを沈めたい!という思いもまた自我ちゃん作用の1つなんですよねん。

欲求は観念によって生まれたりするわけですね。
そして観念は何が良しで何がダメってなことを判断しております。

なので、よりよくしようと動くわけでして、
いわゆる悟りの探求っていうのもまた、よりよくを求めた衝動の一つやというわけなんですよね。

自我ちゃんが自我ちゃんを消したいという衝動に従って動いているわけです。

 

でもこれって無理ゲーですよねぇー。

まず、自我ちゃんというのは動きなわけですから、動きを動きで消し去ろうとするのも無理ゲーなら、自身が自身を消し去った自分になろうというのも無理ゲーなんです。

でね。
自我ちゃんの起こりは自然現象のようなものなので、別に消さなきゃいけないもんでもないんですよねー。

手放すっていうのは、消し去るということじゃありません。
あってもなくてもどっちでもええやーん。ってなることです。
こだわらなくなる、許せるってことなんですねー。
逆に、消し去ろうとするというのは、無くさなきゃ行けない!ってめっちゃこだわってますやんねぇ。

こだわりがありますと、
「あ!あの人はまだ手放せてない!だってこの前めっちゃ怒ってはったもん!」
ってなこだわりも生じてきます。

あの人は進んでいて、あの人は遅れてる。

自分はわかってきたけど、先生に比べればまだわかってない。

みたいな思いも結局こだわりによる執着が起こっとるというわけですが、

どっちでもええやーん。だって自然現象なんやしー。
となるますと、あの人はこうだ!といった決めつけも、全ては起こっては消えていく現象に過ぎないわけですから、ナンセンスになりますし、
その起こってる自我ちゃん的な衝動もまた「それそのもの」ですので、とてもキラめいておりますのでね。
愛おしく許されるものですから、どうにかしなくてもええやーん。
美しい大自然やん!ってことなんですよねん。

とはいっても、それは嵐の中を無防備で歩くというわけでもなく、
雨に濡れっぱなしになってるというわけでもありません。

右ほほを打たれたら左ほほを差し出す必要もなく、
右ほほを打たれそうになったなら全力で逃げたったらええんですよねー。

ま、消し去るのではなく、おってもええやん〜♪
あってもええやーん♪
って許されちゃいますと、もう自我ちゃんの檻の中からも解放されちゃいます。
自我ちゃんの檻に閉じこもるっていうのは、
地面に書いた円の中から出られないと思っている。みたいな単なる勘違いでしかないっちゅうことですので、自由に起こるを楽しめばいいだけですからねー。

まずは、起こってる衝動は、起こっては消えて行く、天気のような動きなんだよねーっていう様子を見て確かめてみたらいいと思います。
そしてそこに付け加えられてる様々な観念は、意味のない意味づけですので、ほっておいてもええんとちゃうん?ということを、感じて見たらいいと思うんです。

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