Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

無条件の受け入れ

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無条件の受け入れっていうのはねー。
それが許されるってことでもあり、
それそのものの受け入れでもあるわけなんですけどねー。

「よっしゃ無条件に受け入れればええんやな!」ってなもんで、
何もかもを文句も言わず、問答無用で許してあげなきゃ。。。
って頑張るのとはちょっと違うんですよねん。

「あ!順番抜かしされた!くそー!」
「はぅっ!いかんいかん、無条件に受け入れやから、許して、受け入れてー。」
スーッ、、、ハァー。。。

ってやるんじゃないんですよねん。

クソー!って思いが単に起こっただけであって、それでええやんってことなんです。
しかもその起こってる事は実際に在るというものでもないんです。

つまりは、起こっていて起こってないって言うことなんですが、
「なんやねん!それ。よくわからんっちゅうねん!」
って思いますよねー。

 

このことの説明として、
「そのまんまの真理と夢の世界が同時に起きている。」
といった表現をされていたり、
「何もない中で、全てのことが起こっている。」
と表現されていたり、
「色と空が同時に起こっている。」
みたいな表現もあったりするでしょうか?

今適当に書いたのでよく知らんのですが、、、。
まあそう言ったいろんな表現がされてると思うんです。

ま、どの表現もその通りなんですが、ややこしいですよねー。

これね。
なんでややこしいのかと言うと、やっぱり答えを求めてしもてるからなんですよね。
答えを指し示す。という目的であえて言葉で表現されると、こういうややこしい表現になったりするわけです。

なんでこんなややこしい表現になるねん?といいますと、
答えってあらへんからなんですよねー。

つまり、何かしらの答えがあるはずっていう思いがね。
正解と間違いを生んどるわけでして、
その正解を探し求めるのが探求だとすると、
答えをみつけたーい!という衝動が探求のエネルギーやというわけなんです。

正解や間違いってね、その土台に何かしらの観念がないと成り立たないんですよね。
ある種のルールのようなものです。

図書館では大きな声で話すのはダメよん。というのは、
図書館内では大きな声で話さないこと。というルールがあるからですのでね。

そういった土台となるルールがある場合にだけ正解と間違いが生じとるわけです。

そう聞いちゃうと、
「そのルールを見破ってそのルールを気にしないようにすれば良いんやね!」
「ルールなんてないんだ!ルールは無視して良いんだ!」
という風に聞こえるかもしれませんが、そういうことじゃなくてですねー。

単に観念が起こってるんであって、
それはそれで、良いよねー。
ってことなんです。

ルールを採用してはならない!といったルールもないわけなんです。

無条件の受け入れの「無条件」というのは、
観念のなさの受け入れっていうことなんです。

つまりは答えはあらへんのやでーっていうことの受け入れなんです。

何かの正解を探し求め、何かを正しいとして、何かは間違いとする。

例えば、色(しき)は幻想であり、空(くう)こそが正解であり真理であるとみなす。

みたいなね、そういった、何かを正解として掴み取ったさきに正解があるっていうことではなくて、

そういったものも単なる執着やったんやん。
あー、そういった掴み取りたーいっていう想いが何かを掴み取り、
掴んだものからストーリーを展開させとるだけなんやん。

でもって、それもそれで単に起こっててそれでええやん。
実際は正解も不正解もない、完全な調和の中で、それが起こっとるとみなされてる間だけそれが起こってるように見えてるだけやーん。

ってことなんです。

無条件の受け入れって、言い換えちゃうと、
わからんでええんやーん。ってことの受け入れってことなんです。

するとわかろうとする衝動もあるように見えて実際はないんやね。
エゴとか自我ちゃんもあるとしている間だけあって、実際はなくて、
そもそも、あるとか無いといった判断すら実際にはないのねー。

あ、だから完全な調和なのかー。
元々が調和なのかー。

ってなことが、そのまんまの中で明らかになるんですー。

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