Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

記憶の中にだけ継続性があるんですね

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原因があって、結果があってー。
っていうねー。

そういったものっていうのも、継続という観念なんですけどね。

こういう観念があると、

なんか、修行をしたら悟りに導かれる。とか、
瞑想をしたら何かが浄化されて「それ」に至る。とか、
前世があって、来世がある。
みたいなね。

そういった物語が起こったりするわけですけど、
これらも、何かが継続されているという誤解から生じている物語に過ぎませんのでねー。

 

ホンマ、あるのは、単に在るだけなんですよね。

「それ」は退屈極まりないもんですし、
なんていうか、なんでもなさ過ぎて、掴み所もないですしね。

この何にもなさに耐えられんのですよね。
自我ちゃんは。

いくら瞑想をして心を鎮めても無理なわけです。
なぜなら、自我ちゃん自身が動きそのものやからなんですよねー。

でね。
その動きを鎮める必要も全然あらへんかったんです。
鎮めても良いんですけどね。
どっちでも良いんです。

どう頑張ったところで、自分は悟ることもできなければ、
どんな状態を体験したところで、全てははかないものですので、
すぐに移り変わるわけなんですよねん。

全ては起こっては消えていくんです。

そんなはかなさを認めようとしない動きを見てみたときにね。
自我ちゃんの探求エネルギーを垣間見ることになるんです。

で、自我ちゃんも含めて起こっていることの全て。
その起こりが生じる空間も含めた全て。

それが、なんの理由もなく在る。
この在るが本来感じていた自分自身であり、
そして、それ以外の何かもない。

すると起こっては消えていくはかなさの奥の何にもなさが顔を出してくるんです。

ありゃま。なーんにも起こってさえいないやんか!
ってことの明らかさが、目の前の世界になんの手を加えることもなく、
顔を出してくるんですよねん。

それって、
なんやねんこのシンプルさは!!!
って感じなんです。

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