Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

進化はしなくても良いというのは、怠け者になるということではありませんよん

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進化はしなくてもいい。わからなくても良い。って言うのはなんていうかものすごく自堕落な感じに思う方もおられるかもしれませんねー。

でもそれは全然違います。もちろん、ナマケモノでも全然良いわけですが、、、。

これは、「わからなくても良い」にすら縛られなくても良いっちゅうことなんです。

それは、湧き上がるワクワクを表現するのになんの遠慮もいらんねんで!
っていうことでもあります。

遠慮せずにノリノリに乗ってやったらええねんで!
ということです。

湧き上がるノリノリを一所懸命抑え込み蓋をして抵抗するもんやから、その抵抗感が苦として感じられとるっちゅうわけなんですよねん。

 

そっか。わからんでもええんや!カシコでおらんでもええんや!
ってのが納得できちゃうと、掴むものはなくなってきます。

掴まなくてもええんや!ってのが明らかになってくると、分離の概念も掴んでたものやったっていうことも明らかになってきます。

その分離の概念の中には、時間や自分という観念も含まれるわけですが、掴んでたものというのは実際にはないということが明らかになることで、自分も時間も消えるんです。

元々なかったって感じですね。
自分が消えると同時に、全ての観念も消えるわけです。
なくなるというよりは、観念には実体がないという事を見せつけられるんですよね。

そんな何にもない中で、実はあらゆることが常に起こってるんです。

ややこしいですねぇ。
でも、これは言葉にしてるからややこしく見えるだけであって、
ホントはこれ以上ないくらいシンプルなんですよね。

不思議なことに、何にもないというのと、あらゆることが起こっているというのは完全に同義なんですよね。

コインの表と裏は同時に存在する。
光と影は同時に存在する。
みたいな感じ似ているかもしれません。

 

まあ、そんな感じで、
進化しなくてもいいっちゅうのは、虚無な感じというよりは、
静寂でありエネルギッシュでもある「あるがままのそれ」を指し示しているんです。

ワクワクと湧き上がるノリノリを表現するのに、なにも遠慮しなくてもいい。
観念でしかなかった自分にも遠慮しなくても良いわけです。

今まで作り上げてきた自分像に遠慮をしなくても良いのなら、なおさら他人に気を使わなくても良いですし、おままごとのルールにも似た社会のルールに気を使わなくてもいいわけです。

ま、他人だとか社会のルールだとかそういうものも自分の中にあった観念なんですよね。
自分すら観念ですので、観念の中の観念ってな感じのものだったわけです。

もし、なんもないならなにもしない。向上できないならなにもしないという風に感じちゃうのであれば、
それは、なにかしらの意味に縛られてしまってます。

意味があるから行動する価値がある。
みたいな観念ですね。

そんな意味にさえ遠慮しなくてもいいことが明らかになると、
もうノリノリに、表現に乗っかったらいいだけになるんです。

湧き上がるワクワクにノリノリに乗る。
それが宇宙にお任せするということなんです。
そしてそれが許しなんです。

すでに許されておるんです。

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