Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

思考と感情とリアリティ

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思考や感情の声を真に受けている間は、
その声による物語が頭の中で展開されますよね。

真に受けるとは、真実として受け取るっちゅうことですからね。
その物語も真実味を持って受け取っとるわけです。

もちろんイメージの中でね。

これはね。
別に自分の中の思考や感情だけに限りません。

他の人の声も、
社会のルールとかも同じことです。

自分の思考や感情は良いんですけど、
他の人の声、社会がルールを押し付けてきちゃってもう、、、。

みたいなこともあると思うんですけどね。

それも、それを真に受けている間だけ、その物語が展開されておるんです。

そうそう、
お釈迦さんの話で有名なやつがあるやないですか。

細かい内容は忘れたんですが、
たしか、お釈迦さんに向かって、えらい悪口を言ってくる人がいて、
お釈迦さんがその人に向かって、
「チミチミ、その悪口を私が受け取らなかったら、その悪口は誰のものですかねぇ?」
「フヒヒヒヒ」
って言ったって感じの話です。
フヒヒヒヒの部分はフィクションですけど。

ま、他の人からのルールの押し付けも、
悪口や批判も、
結局はその人が見ている物語を披露してるにすぎませんので、
受け取らなきゃ単にその人の一人芝居となります。

 

別にこれは悪口だけに限らず、非二元の話もそうだし、
悟りの話もそうなんですよね。
真実である空に入り込むマントラを授けよう。このマントラがあなたを悟りに導くであろう!っていうのもものがたりなんです。

だから、よく僕は、そういった話のなかに真実を探そうとするよりは、
これは、ファッと力が抜けるようなツールとして使ってくれれば良いなぁと思っておるわけです。
で、自身がなにか
掴み取っていた考えを掴み取るその力がファッと抜けたなら。
抜いたままにしてみたらええんじゃないでしょうか?というおススメ、提案なわけですね。

ちなみにこれは、いろんなことを真に受けたらあかんで!って言う話でもありません。
それだと、全ては嘘なんだ!社会なんて嘘っぱちだぜ!
みたいな中二っぽい物語を展開させるだけですしねー。

どんな物語も等価値ですので、
良いも悪いもないんです。
それが良いとかそれが悪いとかもその物語を真に受けてる間だけそれに伴った物語が展開されるってだけです。

ま、等価値というからには、同じ価値なのか?というとそういうことでもなく、
キリンさんとゾウさん。のような感じと言いますか、
比べることに意味がないって感じですねー。
キリンさんにもゾウさんにも点数化された価値みたいなものってないのと同じことです。

でね。そういった観念を全部置いておくとしたら、
まるで何もかもがなくなるような錯覚があるかもしれませんが、
何も失うものはないんですよね。

そういった物語を置いておいたとしても、
いきなり、「うおっ!息が・・・」とかなって死ぬわけやないじゃないですし、

いきなり着てる服が消えるはずもないですし、
もってるものが急に消え去るわけでもありません。
なにも一切失うものはないんですが、何も持つことも掴んでるものもないわけです。

あらゆる観念をぜーんぶ置いておくと、そこには全部が残るんです。
イメージというフィルターを通さないそれそのものがねー。

それは無味無臭な虚無的なものではありません。
虚無的に感じるとすれば、それは何かを掴まなきゃ空っぽになるという物語を真に受けていて、そういう物語を見てるってだけなんですよね。

全部が残るので、足りないものはありません。
全ては諸行無常ですので、常に動いています。
止まる何かがあるわけじゃありませんし、掴み取られる何かもありませんので、
ナマの生命感が残るんです。

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