おっはようございます!
あれやこれやと動き過ぎて、身体の方は色々と愚痴を言っておりますが、
心は元気なタクさんです。
まあ、この際、イメージのストーリーは置いておきましょうよ。
なーんてねー。
思ったりもするわけなんですよねー。
えっとね。
イメージってものすごくリアリティがあるように感じたりすると思うんですよね。
でも、それって実は当たり前で、
リアリティってイメージだからなんですよね。
なんていうか、リアリティもイメージの一部なんです。
そしてね。
このイメージというのは、全て物語。
つまりストーリーなんです。
そして、このリアリティというイメージにあたかも覆い隠されていたように見えて、
実は全然隠されてさえいなかった実感。
それがホントに起こっていることなんですよね。
誰かに何かを言われたことに対して、後から怒りが起こってきている。
そういえば、あの時も、、、。
そんなストーリーが始まると、ついには、最初のストーリーとは別の怒りの物語が展開したりして、、、。
そんな理不尽なことをされた自分に悲しみも起こってきたり、、、。
とそんなストーリーに巻き込まれちゃうことってあると思うんです。
でもって、ストーリーに、また巻き込まれてしまった!みたいな罪悪感というか、
自分はまだまだだなぁ。。なんて思いにもね。
この、「また巻き込まれてしもた!」っていうのもストーリーですのでね。
そして、このストーリーにまとわりつくリアリティというイメージもストーリーのセットの一つなんです。
なんていうか、リアルとか幻想とか、、、そんな区別さえ本来は無いんですよねん。
ストーリは幻想のようなもんとか言っときながら、どないやねん!とか言われそうですけど、、、。この辺のことはまた別の記事にて取り上げると致しまして、、、。
えーっと。
そうそう、
このリアリティな感じもイメージであって、
それでいて、イメージというのはリアリティとセットになっとるわけです。
なのでね。
あ、このリアル感も嘘なんだよね!って頑張って嘘だと思おうとしたとしても、
その思いもまたイメージの中にあるストーリーであって、
さらに、いかん、ストーリーに巻き込まれた!
っていう思いもストーリーな訳です。
こういうのを一切合切、置いておいてみる。
っていうのが、見てみるっていうことなんですよねん。
見るというのは、対象との間に距離を設けますよね。
この距離もホンマはないんですけど、
まあそれはいいとして、
この距離がイメージとセットになっているリアル感とも距離を置いてくれるんです。
距離があるということが知れると、置いておけることにも気づけるんですよね。
怒りやら悲しみも、ストーリーを置いておくと、
いかにも誰かのせいだと思っていたら、残るのは単なる身体の感覚だけだったりします。
そして、それは身体の感覚ですらなく、
単なる感覚であり、
良いも悪いもなく、ちょっとした力みだったりするんですよねん。
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