おはようございます。
タクさんです。
「全ては完全であって、完璧に起こっている。」
ってねー。
言われとるやないですか。
この言葉をなんていうか、
運命論みたいなもんに当てはめて、
こういうことが起こったのも完璧なのか。。。
とかねー、
そういう風に納得するもんでもないっていうかねー。
個別の私は観念の中にしか存在してません。
でもって、観念とはそれそのものを分離させているイメージから成り立っています。
このイメージにリアリティをくっつけたものが観念となっているわけです。
個別の私というのも観念ですし、
どうにも足りない。という思いも観念から派生する思いです。
はたまた、完璧じゃないという思いも、観念の中だけで存在できる思いでございまして、
観念の外にはでられません。
イメージ上の観念を取り払うと、言葉上では完全さしか残らないわけです。
ホントのところは、完全も不完全もないんです。
在る。
以上。
ですのでねー。
なので、その言葉を観念上に持ち込んであれこれ悩んでみても答えは出てこないんですよねん。
普通に好きも嫌いも起こってくるわけです。
観念とはそういうもんなんです。
この観念の働きに逆らったところで、この逆らおうとする思いも観念ですので、
結局、ループしちゃいます。
僕らは何かしらの観念を掴み取って、そこに立ち位置を求めるということがクセになっておるんです。
掴み取った観念のリアリティーを採用してるわけです。
でもって、採用されない観念はリアリティがないものとなるわけですねー。
リアリティーがある種のエネルギー的な働きをして、
単なる思いや感情を観念に変換するわけでございます。
その辺が見抜かれますと、リアリティもある種の幻想のようなものなんやん。
っていうのも見抜かれます。
すると、観念は単なる思考、感情としての働きとして単に起こってるだけと言うものになるんですよね。
個別の私という思いも観念なら、
足りないからなんとか埋めようとする思いもリアリティの無い観念ですし、
リアリティの無さは空虚なんじゃないか?といった思いも観念なら、
完全さと不完全さという区別も観念の中の思い込みだったりするわけですね。
あえて言葉にすると、完全さしかなく完璧に起こっているとしか言い様がないんですが、
それは不完全のなさという意味であり、
不完全さとは、あえて思いとして採用しない限りは無いものですし、
この思いを採用するには、分離という観念を採用しておかなきゃならないものでもあったりするんですよねん。
なんだか、書けば書くほど理屈っぽくややこしくなっちゃいますねぇ。
というわけで、今日はこの辺にしておきます。
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