光が強いと影も濃いのと同様にねー。
ポジティブだけを欲しがるとネガテイブの輪郭もハッキリしてきよるんですよねん。
光とか影とかね。
そうやって分けてるのも結局のところ観念でしかないわけなんですね〜。
なのでね。
「それ」とかが分かろうが、やなことも好き嫌いも起きて来るんですよね。
よくある誤解で、苦からの解放がおこると、ネガティブなことは起こらなくなる!
みたいなねー、そういう誤解があるかもしれませんけど、
実はやな事が起こらなくなる。という事じゃなく、
苦ってのは、単に思い通りにいかない事という意味やったのね。
ってなことの明らかさであって、
思い通りにならなきゃいかん!っていう観念が強ければ強いほど、
思い通りにならないことが増えていくんですよね。
で、そういった思い通りにならなきゃいかん!っていう価値観からの解放がねー。
苦からの解放なんですよね。
なので、好き嫌いはそれで起こりますし、
それで良いんですよね。
嫌いには、嫌いの味わいがありますから。
その味わいがわかるといいますか、
そもそもその起こってることだけしかないといいますかね。
起こってることだけしかないっていうのは、
自分の目の前にそれだけしかない。
ということじゃないんですよ。
そうやって起こってること、そのまんまがもうそれそのものであり、自分も「それ」そのものなんです。
起こってることがもう自分そのものなんです。
自分がいて、起こってることがあって、
それに何やらレッテル付けをしたり判断をしている。
ってね、
思ったりしますけど、
そのレッテル付けの中に「自分」という観念も含まれとったんですね。
なので、レッテル付け、観念を外していくと、
「それ」しか残らないんです。
自分の前に「それ」だけが残るのではなく、
自分という観念も剥がれて、自分だって「それ」そのものの中にあったんです。
対象だと思っていた目の前のこと。
これが対象ではなく本質だったんです。
でもって、本質しかないわけだったんですよね〜。
なのでね。
「それ」を知った自分が、何か特別になる。
って言うことはありませんのでね。
そういった意味で
「なんにも変わりませんよ〜」
ってことになるんですよね。
ただ、観念の世界上では、やっぱり変わったようには見えるかもしれません。
ようは、変わるとか変わらんとか、んなことどうでも良くなるんです。
だって、それも人それぞれの観念の中の世界ですからね。
観念の作られ方は全くの自由であり、人それぞれ違いますからね。
でもって、こういった話って全員に共通して当てはまることでもないんです。
だからね。
あくまでも大事なのは、自分の中のハートの声?
そういった奥底でポッと光るようか、何かが緩むと言った感じといいますかねー。
そっちに従ったほうが良いんです。
そうなったことだけを道しるべとして利用して、
なんかイマイチよくわからんわ。
みたいなもんはスルーしておいたら良いんです。
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