ラジオから聞こえてくる音。
窓を照らす陽の光。
遠くで聞こえる話し声。
キーボードに触れる感触。
足に伝わる座布団の柔らかさ。
これらをあえて表現している言葉を抜いたもの。
ダイレクトさ。
あるのはそのダイレクトさだけ。
だけっていうからには、そのダイレクトさに溶け込んでおるというわけですが、
実際に溶け込むんじゃなく、
元々溶け込んだそれそのものしかあらへんっていうことであってねー。
主体と客体っていう観念をちょっとヨコにおいておいたとき、
そのダイレクトさの「それ」だけが残るんです。
そして、主体と客体から始まるあらゆる観念も、
その「それ」のなかに含まれている全部そのものだと知るんですね。
そして、確かなイノチの実感がふつふつと在るわけです。
非二元とか悟りっぽい話を聞いたりしてねー、
ついつい今までのクセでそういった話を概念的に捉えちゃったりするとね。
なんとなーく頭では理解できるんだけど、
そうやって概念で捉えると、そこにダイレクトさはないんですよね。
だってそれも思考のイメージの中の概念だからね〜。
で、そんな概念で捉えたときは、この概念は虚無主義になっちゃいます。
世界を概念で捉えて理解する。
この仕組みの中だけに閉じこもってると、さとりの話も虚無主義じゃんってなっちゃうんですよね。
数年前かな~。
ボクも、こういった話って虚無主義ですやん?
その違いってどういうことなんやろ?
って思ってたことがあったんですけどね。
で、いろんな覚者さんの答えを探してたりもしてたんですけど、
「これは虚無主義ではないんです。フフフ。」
「たしかに虚無主義に聞こえるかもしれませんね。でも、ぜんぜん違うんです。アハハ」
みたいな答えしか見つからんことがありましてね〜。
なんやねん!このフフフとかアハハ。とかは!!
って憤慨してたことがあったんですけどね〜。
ま、結局、概念や観念をちょっと置いておきましょうよー。
ってな話なわけでね。
なのに、概念で捉えようとしても、、、ねぇ。
それも置いときましょうよ。
捉えるってことを一回置いておきましょうよ。
ってことだったんですね。
置いておくと、ダイレクトさが残ります。
すると、置いておいたものも含めて、
全てが、そのダイレクトさであって、
そのダイレクトさは、まさに生命感のふつふつした感じであり、
虚無主義とは似ても似つかず、全然違うんです。
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