いつでもどこでも寝れるんとちゃうやろか?
最近はそんなふうに感じているタクさんです。
あー眠い。。。
というわけで、
おはようございます。
皆さまいかがお過ごしでしょうか?
さて、今日のお題は
「経験しかなくて、経験すらない」
みたいなお題なんですが、
なんのこっちゃよくわからないですよね。
今日は経験について、
経験しかない!っちゅうことについて書いて見たいと思います。
いきなりなんですが、
諸行無常(しょぎょうむじょう)。
って仏教の言葉があるやないですか。
諸行無常。
つまり、諸行は無常である。
っていうのはね、
全ては常に動いとる。
っちゅうことを意味するんですけどね。
(厳密には常(つね)では無いっちゅうことで、この辺を突き詰めようとすると長くなるのでまた今度にしますが、、)
この起こっているっていうのは、まずは経験として受け取られておりますよね。
だから、
わたしゃ歩いている。
なんか不安な気分で落ち込んでる。
わしゃー嬉しいよ。
みたいな感覚があるわけですね。
つまり感じ取られている全ては経験やというわけです。
そして、その経験を受け取る際に、
概念というフィルターを通るわけですね。
このフィルター、概念の大前提には、
主体と客体、そして「自分」という概念がありますので、
自分が何かを経験した。
と認識されるわけです。
物語が紡がれるのは、その後になります。
物語にフォーカスしていると、どこかに力が入ります。
物語を維持しなきゃいけないですからね。
そして力が入ると同時にフォーカスしている範囲はとても狭くなります。
経験から、概念というフィルターを通し、そこから物語が紡がれ、物語に物語が付け足され、、、と、
どんどん通すフィルター、付け加えられるレッテルが多くなるに従い、範囲が狭くなっていきますのでね。
取捨選択を繰り返すと、範囲が狭くなる。
ケーキを切り分ければ切り分けるほどに小さくなるっちゅう感じですね。
そうやって起こってくる想念に対して、
「なんとかなるんちゃうのん?知らんけど、、、。」
ってな感じで、ゆーったりとしてると、力は入りませんが、
「なんとかしなきゃダメじゃないか!」
「さて、どういう作戦で行こうか!」
と考えだすと、力が入ってきますしねー。
もちろん、楽しく作戦を練るのは面白くて良いわけですが、
「なんとかしなきゃならん!」に恐怖感が伴うと、どうにも苦痛だったりしますし、
恐怖を避けようとすればするほど、不自由になっちゃいますからねー。
まあ、まずは落ち着いて、単に感覚を感じてみればええねん。
なんて言われてたり、僕も言ったりしてますが、
まずは、物語を置いておいて、感覚の方に戻ってみるという感じなんですよね。
で、この感覚には何かしらの概念がくっついております。
概念とはコンセプトのことです。
物語の骨子になる部分です。
この骨子に従って物語が肉付けされていくっちゅうわけですねー。
このコンセプトが発見できたのなら、
「ははーん。こういうコンセプトなのねー。」
なーんて、お気楽に人ごとのようにしておいたったらええんですよね。
そうすると、言葉にもならない経験だけがダイレクトに起こっとるだけなんやんねぇ。
とリラックスできるっちゅうもんです。
でね。
自分というコンセプトってなかなか気づきにくいもんなんですけど、
これって、分離のコンセプトでもあるので、
どこに分離があるのか?っちゅうことを観察してみるとオモロイかもしれません。
どこからが自分でどこからが経験なんやさ?
って確かめてみるんです。
「私はコーヒーを飲みました」
という経験に対して、
はい!ここはコーヒーの領域でーす。
はい!ここの境界線からは自分の領域です!
ってね。
経験の中に境界線ってホントにあるんかいな?
てねー。確かめてみるんです。
するとね。
あれれー?
もしかして、経験ってどこかに境界線があるように感じてただけで、ほんまは無いんちゃうのん?
ってなことが、見えてくるかもしれません。
経験があって、自分というコンセプトやその他コンセプトを通って、物語が紡がれる。。。これらも全部ひっくるめて境界のない常に起こる経験なんですよね。
分離なんてありゃしないわけです。
経験とコンセプトの間にも、コンセプトと物語の間にも境界線は無く、
コンセプトの後に物語が起こるって書いてますが、厳密にはこれらにも後先といった関連性もなく、それでいて分離すらないんです。
境界線は探してもどこにもありません。だから分離もないんですよね。
取捨選択をして、真理を残して、嘘やカルマやなんやかやを捨てたら良いんやろ?
みたいな勘違いもあったりするわけですが、分離なんてあらへんから取捨選択も無いんですよねー。
そうなってきますと、
あらま。
全部あるんやん。
無いのは分離だけやん!
ってなことになるわけです。
経験がダイレクトに分離なくあるわけで、またこの経験という呼び方も単なるレッテルなんですね。
この呼び方すら置いておいてみると、
「在るが在るとしか言いようがないやん。」
在るは全てであり、ダイレクトであり、それそのものであり、
親密で、分離がない。
ああ、、、この分離のなさ、、、親密さ、、、それは愛そのもの。。。
ってねー。
何も変わらない目の前の全てのそのものが、すでに「それそのもの」であったことが明るみになるんですよね。
誰かに明るみになるわけでもなく、当たり前が当たり前を取り戻すわけです。
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