Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

ただある「それ」とリアリティーがごっちゃになりますねん。

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これは一切離れたことはなく、常にここにあります。

そして、あるのは「それ」だけなんです。

でも、どうにもそういう気がしないでいるのは、
観念があるからなんですね。

観念とは、実体のないイメージですね。
その観念にリアリティがあるので、そのまんまのそれが、よくわからんことになってるわけです。

ちなみに、私という存在も観念の一つなわけですが、
私なんていないんですよー。
それは観念ですよー。
ってね。
言われたとしても、

イヤイヤ、いるし!
私ここにいるし!

ってねー。
揺るがなく思ってたりするかもしれません。

じゃあ、そのあなたがいう私って何よ?
何を私やと見なしてんのよ?

と言いますと、
んん?
よくわからんけど私は私!
身体が私やし、心が私やねん!
ってな感じに感じるかもしれません。

身体やったら、どの部分?
心は常に移り変わるけど、どこに私が?
って聞かれると、

??
その身体と心はをコントロールしてるのが私やねん!
って思うかもしれません。

じゃあ、そのコントロールしてる本体の実体はどこにあるのん?
コントロール出来るんだったら、なんで悩んだりするのん?
心臓の鼓動でエイトビートを刻むことはできるのん?
って聞かれると、

よくわからんけど、実体はないけど、
存在、在る感じはれっきとしてありますもん!
だから経験が起こるわけなんですからー!

うん。
確かに経験はあるねぇ。
私という何かが実体として在るわけじゃないけど、
経験はある。
それならあるのはその経験だけとちゃいますのん?

ファ!!!

僕らはいつの間にか、ただ起こってることに、観念をくっつけてそこに自分という観念も混ぜこぜにして、一つの概念としちゃってるんですよね。

で、ただあるそれのリアリティまでも、一緒に混ぜこぜににしちゃってるものだから、
その概念上で生まれる物語にも、リアリティを感じちゃったりしちゃってねー。

なんとかしようとせずにただ見てみるってのはね。
まずこの、観念の混ぜこぜを、一旦停止して、
観念とそれが混ざりあってて、まとまった自分になってるのを解きほぐして見たらええねん
ってことでもあるのかもしれませんね。

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