すべては完璧とか、自分は素敵すぎる!
ってなことは、ホントの事なんですけど、これってそう思いましょう!
ってことじゃないんですよねー。
そう思おうってやって、そう思えるんやったら、悩むことなんてないんですよ。
なのになんで悩みは尽きないのか?
と言いますとね、
自我ちゃんは常に完璧になろう、素敵になろうとしてるからなんです。
ん?
どゆこと?
だって、すべては完璧で、素敵なんでしょう?
じゃあ、そうなろうとするのは当たり前やん。
って思うかもしれませんねぇ。
でも、ちゃうんです。
そうなろうとしてるのは、そうじゃないっていう思いがあるからなんです。
なんで、そうじゃないって思うのかと言いますとね。
どこかに、自分が損なわれるんじゃないだろうか?
っていう恐れがあるからなんです。
この恐れって突き詰めてみると、死の恐怖なんですよね。
で、この恐怖が行き過ぎると、生きにくくなってしまうんです。
このまま生きてると、死ぬかもしれん!
とかいうよくわかんない回路に迷い込んだりもするんですよね。
でね。
ここで起こるよくある対処法がね。
何かしらの修行でもって、その恐怖を克服しようってな方法だったりするんです。
はたまた、そんな恐怖は実は思い込みにすぎず、
誤解だったんだよー。
ってなことに気づくワークだったりね。
この修行が、
苦行とか、スピ系なワークとして起こってたり、
誤解だったんだよーって気づくワークが癒しのワークとして起こってたりするわけなんですよね。
もちろんこういったワークがうまくいって、
重たい感覚から解放されるってこともありますので、
全然いいんですし、
本当にしんどいのなら、僕はプロの人に頼るのがまず基本だと思うんですよ。
非二元っていう教えが、そう言った嫌なことを抑え込むのに役立つことはないんですよね。
僕らが自我ちゃんって言ってるこの一連の動きって、
もうそういう動きそのものなわけでして、
非二元への目覚めっていうのは、
その動きを止めることでもなく、
そう言った動きを今後封じ続けるっていうことでもないんです。
ただ、そう言った動きが、自然に起こってるということに対する
見抜きなんですよね。
自我ちゃんって呼んでたりしますけど、
本当に自我という何かがあるわけじゃないんです。
ただ、動きがあるだけで、そこにその動きの所有者はいないんです。
風が吹くのに、その風の高位者がいないのと同じで、
自我ちゃんって呼んでるその動きが、ただあるだけなんです。
そのことへの見抜きが、非二元とかで言われていることなんです。
なので、教えでもないんですよね。
単なる自然現象を言ってるだけなんです。
この自然な様っていうのが、分離がないという真実であって、
分離がないというのは、二元じゃない。
二元に非ず(あらず)。
ということで、非二元っていうことなんですよね。
ホント大したことじゃなく、
それ以上でも、それ以下でもない話なんです。
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