僕らが現実だと思っているものは実はイメージで、実際にあるのは直接的な経験しかないんですよねーん。
例えば、外からブゥーンって車が走ってる(と思われる)音が聞こえるとするじゃないですか。
そのときって、音は聞こえてますが、車が走っているというのはイメージでしかないわけですからね。
でね、この音なんですけど、
おっしゃ!
自分が聞くぞ!
としたところで、もう音が聞こえたあとでは後の祭りと言いますか。
もうすでに聞いたあとに、もっかい自分が聞くから鳴らしてちょ!
といったところで無理やないですか。
自分が聞いてると思う以前にもう鳴ってしもてるんですよね。
でね、あとからこの音は自分が聞いたんや!
この音は車が通りすぎる音なんや!
てね、思ったとしても、これってイメージにしかすぎないんですよね。
カァーーーー。
っていうカラスの鳴き声を聞いて、気づきに至った。
とかいう坊さんがいたとかいう話を聞いたことがあります。
一休さんでしたっけね。
この
カァーーーー。
って鳴き声を聞いた瞬間って、カラスも自分もおらんのですよね。
準備する間もないっていうかね。
あとから、そういった設定を付け加えなければ、
カラスも鳴き声もホントのところはないんですね。
そういうのを確かめてみるのが、
ただ見てみる。
そのまんま見てみる。
ってことなんです。
音って結構観察しやすいので、分かりやすいんですけど、
目に見えるものも、
身体に感じる感覚も、
そして、ココロに現れる感情や思考も、
全部同じようなもんなんです。
後から付け足してるものはイメージなんですよね。
自分という感覚もイメージのひとつなわけです。
でも、どうしてもこのイメージの方を現実と捉えがちなんですよね。
ところで、現実ってなんやねん?
と言いますと、
本来は誰にとっても明らかなものなはずじゃないですか?
現実というのは本来は、どんな信念も介さずに、
どんな人の解釈も通さずに在るものなんですけど、
なぜか、個々のイメージでもって、個々がそのイメージを現実だと思っちゃってるもんだから、
自分の現実に合致しないと思う現実を唱えてる人に対しては、
あんたの現実はちょっと間違ってるで!
とかね、
言いたくなる人も中にはいたりしてね。
Aさんの現実とBさんの現実。みたいな感じで意見が食い違ってる時点で、もうそれはひとつの主張であって現実ではなくなっちゃてるわけなんですけどね。
別に主張は主張でいいんですけど、現実ではないですよねぇ。
と、いうことは、
現実っていうのは、どんな判断も通さないもんじゃないと現実じゃないという事になるんですよね。
何かしらの判断を通した現実というのは、もう、判断した人の信念でしかないわけですのでね。
信念というのはイメージのようなもので、
このイメージを唯一の現実として信じているのだとしたら、
個々人が個々人なりの夢を見ているというのと同じようなもんになってしまうんですよね。
となると、判断を加えられていない直接の経験だけが現実となりますね。
言葉というのは、もうすでに言葉になった時点である種の意味が付与されてしまいますが、
その意味以前、言葉以前の直接経験。
ただの音。
いや、音はもう音と言う判断が加わっておるので、
音ですらなく、ただの何か。
自分と言う概念も起こる以前の「それ」だけ。
という事になるんですよね。
ただし、僕がこうやって書いてる文章も言葉になってしもてるんでね。
現実性はもう無くなってしもてるんですよね。
だからだれも、真理を語ることってできないんですよね。
そして、言葉はそのまま真理にはならないんですね。
だから、道元さんなんかは、この教えは月(真理)を指ししめる指でしかないので、
指を見ないで、月を見ましょねー。
とか言ってるわけですな。