Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私はいないだと?いるにきまってるし、世界は完璧なわけないじゃないか!

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よく、非二元の表現には、
私はいない。
善悪は無い。
世界は完璧。
と言われますよね。

僕もここでそんなことを書いてると思いますが、
ここで書いているのは、
世界は完璧なのかそうじゃないのか?
私はいるのかいないのか?
善悪があるとかないとか?

と言った、どっちが正しいのか?といった話ではありません。

そうじゃなくて、分離した自分がいるという信念について書いてます。

んなもん
分離した自分がいるという信念がある場合は
当然のことながら、世界は完璧とは言い難いし、
善悪はあるし、
私はいるわけです。

ここで言ってるのは
この分離した自分がいると言う信念は本当なのか?
それって、本当に実在しているの??
ということなんですよね。

分離した自分がいるという信念を持っていると、
自分がいるなんてことは当たり前だー!と思い込んでいるもんです。

また、
今、目の前であなたと話してるじゃん!あなたいるじゃん。
僕聞いてるじゃん!とか
今、ワタシ、ここで水飲んでますよー。いますよねー?ワタシ。
とか、そうやって、自分がいるという証拠集めをしたところで、
その証拠の全ては自分がいるという前提で作られた証拠なんですよね。

じゃあ自分って何?
と問われると、答えは見つからなくなります

自分は身体でしょうか?
でも、身体は常に変化してます。
変化するのが自分だとしたらそれはただ、今そういう自分のようなものが現れてるだけとなります。
目の前の水を飲んだら自分に変化するんでしょうか。

身体のどの部分が自分なんでしょう?
心臓?脳?
人工心肺をつけた場合は、その器械自体が自分になるのでしょうか?

考えや感情が自分なのでしょうか?
ではなぜ悩みたくないのに悩むのか?
なぜ怒りたくない時に怒ったりすることがあるのでしょう?

注意深く探してみると、自分ってのはどこにも見つからないんです。

確かに、身体や心はあるように、リアルに見えています。

でも、それらも変化の流れとして表れているだけなんですよね。

まさに常に新しく表れている変化の流れの中の一部分を自分だと思い込んでいるだけなんです。

また、イノチとは、どこにあるのでしょう?
身体や心が変化の流れの中のひとつの表れだとしたら、イノチは身体や心の中ではなく、
この大きな流れそのものがイノチなのではないでしょうか?

というわけで、僕が書いているのは、
そういったことを観察してみてみるのも、ひとつどないでしょうか?
という提案なんです。

またこれは分離した自分が居るんだと理解することでもなく、この分離感をあなたが取り除かねばならないという話でもありません。

分離した自分というのは、あくまでも定義であり、エネルギーなんです。
そして、その定義そのものが自分という感覚なので、
自分がそれを取り除くとか取り払うという事はできないんです。

これは、見抜かれることが起こるときに存在そのものであるイノチそのものに理解が起こるんです。

自分には何もできませんが、そのまんまにしたときに、そのまんまにしておくことに抵抗するエネルギー。
これが自分というエネルギーを観察できます。

すると、次第にこの観察者と共に、自分というエネルギーも消えていきます。

一気に消える場合もあるようですが、僕の場合は徐々に消えていく感じでした。

このそのまんまの「それ」を描写するひとつの表現が、
ただ、起こることが起こっているだけ。
全部しかない。
善悪とか判断は存在しない。
私はいない。

という表現なんです。

もっとちゃんと表現するとしたら、
私はいるでもいないでもない。
全部しかないし何もない。
善悪とかの判断は存在しない中にただ起こっている。
何も起こっていない中で、起こることが起こっているように見えている。

みたいな表現になります。

ちなみに非二元とは、二元でも一元でもないという意味なんですよね。

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