はーい。
おっはようございます。
タクさんでございますですよっ!
昨日の記事で明日は心のことについて書くねーんって言っちゃったので、
今日は心のことについて書いてみよっかなーって思います。
僕らってみんな一人一人、自分の中に心ってものを持っていて、
それが、自分というものを作る構成要素になっている。
みたいなね。
そんな風な概念みたいなものを持ってると思うんですよね。
じゃ、心ってなんやねん?ってことなんです。
真心、心配、心痛、心を配る、心遣い、etc、、、
と、心を使った言葉もたくさんあります。
そしてこの心ってのを、結構みんな大切にしていると思うんですよね。
なので、心が煩っていると、どうにかしてこの心を煩わせないようにしなきゃっ!
って思ったりするんです。
なんか嫌なことがあったり、不安があったりすると
心が騒ぎますよね。
ざわざわざわ・・・
って、
そうすると、早く心を煩わせているこの状態を何とかしなきゃならん!
ってなるんですよね。
なんか、「悟り」とかってのも、この心が常に平常心になることなんとちゃうやろうか?
って誤解をしている人も多いと思うんです。
結局、みんなずっと安心していられればいいのに、
って望んでるんだと思うんです。
心が煩うのが嫌なんですよね。
それで、人は心を煩わせないようにするために、多大なエネルギーを使っているんです。
でも、皮肉なことに、そのエネルギーがまた心を増大化させる原因にもなっちゃったりしてるんですよね。
これは、どっかで以前も書いたと思うんですけど、、、
心ってね、実はないんですよ。
感情とか思考とか記憶とか、、、それらをひっくるめた何かを心と呼んでいるだけなんです。
1つ1つ、注意深く観察してみると、思考とか感情とかが、単に今起こっているだけだったりするんです。
それが様々な物語を作り出すんですね。
うわっ!最悪!このままだと、もしかしたら、あんなことやこんなことになるんとちゃうやろか?
みたいなね。
これは、その通りかもしれませんし、外れるかもしれませんし、それはわかりません。
なるようになるかもしれませんし、対処するような行為が起こるかもしれませんし、どうにもならないかもしれません。
でも、心配だから、あれこれと思考だけがぐるぐると回り続け、そこで留まってしまったりするんです。
この辺のことがエネルギー的な流れをせき止めて、何とも収縮的な感覚を感じたりすることになったりするんです。
安心しているときはスッキリと流れるんですけどね。
もちろんのことながらこのエネルギーの流れってのも比喩的なもので実際に何かが流れているわけじゃないんですけどね。
さて、「悟り」はこういったものを全部解決できるのか?ってことなんですけどね。
夢をぶち壊すようですが、そもそも「悟り」なんてのもないんですよ。
みーんながみんな、なにがなんだかわからないものに対して「悟り」と名付けて呼んでいるだけで、
それをどういう意味で使っているのかも、人によって違うんですよね。
一切の心身が脱落しきっていて、絶対に心を煩わない個人を「悟った人」だとする解釈もありますし、
なんか神の領域のようなところに到達すること。みたいな解釈もあります。
これらの解釈は、もう完全に物語でしかありません。
架空の物語ですね。
何かを得て、安心できるようになろう!
といった方向性そのものがね、分離という誤解からくるものなんですよね。
そういった何かを得る自分がいないからには、そんなもんも無いっていうことなんです。
自分がいないと、もう中心というものが無いんですよね。
でもそれに、慣れてないととっても不安定な感じがして怖かったりするんですよね。
だから何かにしがみついていたくなるんです。
でもしがみつくことによって、不自由感が生まれてしまうんです。
ホントは根拠のない恐怖なんです。
安定も不安定も、想像の中でしかない世界ですし、
実際に断崖絶壁に立っているわけじゃないんです。
だから、ホントに心配する必要なんてないんですよね。
こういったことを見抜くと、分離感ってのもなくなってくるんです。
っていうか、最初っから無かったんですけどね。
不安とか心配とかは、それを見抜くと少なくなってきますが、
それは、そういった心配も不安もあって全然良いジャン!って思ってるからなんです。
(※ホントは思ってる誰かもいないんですけどね)
そのことに気づいてくると、
安心でいるために、ものすごく大きなエネルギーを使っていたなぁってことがわかってきます。
結局のところ、人があれこれ悩んだりするのも安心でいたいだけだったわけで、
あれこれ悩んで何かをすることで安心を遠ざけていただけちゃうんか!みたいな気づきですね。
気を紛らわせるために何かをやったり、酒飲んでみたり、
ムシャクシャしてみたり、
瞑想して心を平常心に保とうとしたり、、、
そういった行為が逆にどんどん心を増大化させて、余計に空回りしてしまうっていうか、
なんかそんなことをしてたなぁーって思うんです。
「安心でいたい思いが安心を遠ざける」みたいなね。
中途半端にそんなことに気づいてしまうとですね。
瞑想とか修行とか、そんなんも無駄やったんやんけー!
なんやねん!あの先生はっ!
何もかもを知ってる風に装っていながらわかってなかったのか?
もしくはわかっていてわざとそういう事をさせておったのか?
とかね、そんな風に思ったりする場合もあるんですけどね。
そういうことじゃないんですよね。
そんなことをしてたことが無駄だったのかと言うと、そうじゃなくて、
何かをしている自分もいてなくて、もうそのまんま、今、起こることがただ起こってるだけっていうね。
だから無駄なんてものもありようがないんですよね。
笑うしかない。
みたいな。
今を否定するから今から離れてしまっていただけっていうか、
実際には離れても無くて、離れている気になっていただけだったみたいなね。
なので、笑うしかないんですよね。