おっはよーございまーっす!
タクさんです。
ファーッはっはっはっ!
ということで、
今日はもしかしたら読んで怒っちゃう人もいるかもなー
ってなことを書いてみたいと思います。
テーマはザ・ネコ目線!でございます。
ブッダの悟りとか、
そもそもの悟りとか、
気づきの体験もそうですし、
禅の教えもね。
ぜーんぶ!
物語でしかないんです!
仏教の教えもそうですよ!
あれも幻想の物語のようなもんなんです。
だからね。
そういった教えと、便所の落書きは完全なる同価値なのでございます。
同価値と言いますか、いずれも価値はなく、ありがたいブッダの言葉が書かれた経典と
便所の落書きは
同じ、ただのシミでございます。
ここで書いてるのはね、救いの話じゃないんです。
最初っから救われてるって言いますか、
単に救われてないっていう想像の中に入りこんどるだけっていうお話です。
それと同様に、
ありがたい教えも単なる想像の産物に過ぎないわけなんですよねー。
そして、
悟りというものもなけりゃ、ブッダといった特別な誰かなんてもんも
ないんですよね。
想像の中だけしかね。
これがなんでネコ目線の話やねん??
と言いますとね。
ブッダがありがたいのも、悟りといったすごいものがあるという話も
単に、
チーム内でそういうことにしとこうぜ!と決められたチーム内でしか通用しない
内輪話と同じようなものだからなんです。
おままごとをしている同士でしか通用しない泥だんごと同じことなんです。
どうしてもこういった探求をしていると、変な知識が増えてきちゃったりしてねー。
悟りには段階があったり、
究極のブッダの悟りなんてものがあったり、
禅問答の答えはこれだ!といった伝説があったり、
新たな気づきの体験をしたり、、、
みたいなねー。
そういった妙に複雑怪奇な物語に絡め取られちゃったりもしちゃいがちなんですけどね。
これって、もう全然シンプルでもダイレクトでもないじゃないですか?
そんなもん真理であるはずがないんですよね。
人ってどうしても何かしらの概念を掴んでないと生きていけない。
みたいな社会的な本能があったりするんですけど、
まず、人。
人間っていうのがそもそも作られた概念でしかなかった。っていうね。
その気づきなんですよね。
もちろん誰かが気付くわけでもなく、誰かがいるっていうことすら
イメージの中の物語だったわけなんですけどねー。
教わったこと。
聞いたこと。
っていうのは、それを知っている人たちの中だけで通用するローカルルールです。
おままごとのルールと同じようなもんです。
そして、教わったことは単に知ってるもの同士でそう見なそうぜ!としているだけのことだったりするんです。
その教わったことの中には真理っちゅうもんはありません。
もしそれが世界の真実なら、人間だけじゃなく、知っているもの同士の仲じゃなく、
ネコでも、バッタでも、生まれたばかりの赤ちゃんでも適用されなきゃおかしいわけです。
教わったことや聞いたことをぜーんぶ取っ払って、思い込んでた概念もぜーんぶ取っ払った後に残るもの。
それが「それそのもの」な訳です。
「それそのもの」はネコにもバッタにも生まれた赤ちゃんにも適用されます。
実際にはネコという呼び方もバッタという呼び方も教わったものの中のもんですので、
本当のところは、なんでもないものが分離なく在る。
ということになる訳です。
ネコ目線でみると、ブッダもその辺のおっさんも価値の違いはない訳です。
餌をくれる人を本能的に好きになったりするっぽいですが、、、。
なので、教えや本の中に答えはありません。
突き詰めようとすればするほど、探求が深まるばかりなんです。
一回ぜーんぶ忘れて、本も何もかも捨ててしもても良いくらいです。
で、教えを頼りにしない。
わっからなーいの中に落ち着いてみたらええと思うんです。
わっからなーいに落ち着くと、そこで初めて、掴もうとする衝動のエネルギーを
感じることができるかもしれません。
こいつが教えを収集しては混乱させておったんです。
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