Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

これでいいのだ!と思えなくてもいいのよ

はじめに

へいどうもー!
タクさんでございます。

ま、僕らというか、僕らの思考ちゃんっていうのは、仕組みとして中心に主体という「自分」を置くわけなんですね。
そして、思考のイメージ世界の中で自分と自分以外の「外側」を作るわけなんですが、実際のところ、この外側というのも思考のイメージ世界の中にあるわけなんです。
つまり、外側に見えて内側なんですよね。

そして、思考を通したイメージ世界ではなく、ダイレクトな事実を探そうとしてもうまくいかないのは、それを思考の中の外側に求めるからなんです。

これって、思考のイメージじゃない物を、思考のイメージの中で探そうとしているって感じなんです。

これだとうまくいかないってなもんですよね。

そして、「私」というものもまた、思考ちゃんが働く際に作られる真ん中の主体として置かれるイメージですのでね。

私が何かをやっているという解釈は起こるわけですが、実際のところ私が何かをやっているわけではないんです。

ただ、私が何かをやっているわけではないという解釈を探そうと頑張ってみても、これまた、思考イメージの中を彷徨うことになります。

こんなのまるで、お釈迦さんの手のひらの上であれこれと彷徨っているような感じですよねー。

ですので、いくら頑張って探求し探し求めたとしても、それはみつからないんです。
つまり諦めるしかないんです。

そして、もしうまいこと諦めることができたなら、パーっと目の前の世界が広がるんです。
「なーんだ!これでよかったんだ!」という清々しさが残るんです。

・あきらめと悲しさ

私が何かをやっているわけではないということは、自分でどうこうできるものなんてないってことですからねー。
これって、ある種のあきらめなんですが、あきらめたとしても、やっぱり悲しいしツラいしくやしぃー!
って感じちゃったりしますよね。

おまかせして、あきらめようと試みたとしても、結局悲しいだけで、なんか言われているようにスッキリするわけでもなく、どうしても楽に感じられないってな感じになったりしてね。

するとふと、
「まだ、あきらめるには何かが足りないのかも知れない」
「うまくいかないからには、私には何かが欠けているのかも知れない」
なんてねー。

そんな風に思ったりして、また思考ちゃんの大海原の中で探求を始めたりするわけです。

でね。
「どうしたらいいのー!???」
ってなっちゃったりするんです。

・これでいいのだ!

ま、これだってねー。
なんていうか、「私」が「どうしたらいいのー?」ってなってるわけじゃないので、それでいいんですけどねー。

あきらめても、まだこの「どうしたらいいの?」に巻き込まれてしまうということは、
結局まだ本当にあきらめていないということなんです。

それでいい!これでいいのだ!
ってね。
がんばって思おうとしている。
思える自分になろうとしている。
って感じなんです。

実際のところ、全部、「これでいい!」んですけどね。
これは、そう思えるように頑張ることでもなけりゃ、「これでいい!」という根拠を思考の中で探したり作り上げるということではないんです。

私が欠けていると感じるのならそれを迎え入れてあげたらいいんです。
何かが心の中で湧いてきたのであれば、湧いてくるままにしておいてあげたらいい。
触らずに、いさせておいてあげたらいいんです。

私を変えようとするのではなく、ただそのまんまであってみるんです。

するとそもそも、それって「私」が始めたことでもやったことでもないことに気づくかも知れません。
であるのなら、私がどうこうできる物でもないし、そもそも今までだって私がどうこうしてたわけじゃないことを知るんです。

これは理屈で知るという感じじゃなく、そう実感するんですよね。
この実感は、悲しい物ではありません。
これでいいと無理やりあきらめを飲み込むのでもなければ、
もうどうでもいいや!とヤケクソ気味になることでもないんです。

この実感は、今までのありとあらゆる私への許しと救いなんです。

 

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