Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

拡大解釈された安全と危険

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おはようございます。
タクさんです。

鳥だ!
飛行機だ!
いや、スーパーマンだー!

ってねー。
ゆーてるわけですけど。

僕らの時代だと、スーパーマンではなく、
たけちゃんマンなんですけど、
どっちも古いですねー。

ま、鳥と飛行機を見間違えるのも相当目が悪いのに、
結局人だったって、ほんと、目、大丈夫?
って思ったりするもんなんですが、

以前、船を見たことがない人は、
海岸線に船が浮かんでいても、それを認識することができない。
なんてことを聞いたことがありますので、

まあ、人が飛んでるっていうのを理解できてないと、
本当に見えないのかもしれませんね。

人は自分が知っているものしか見ることができないってことなのかもしれませんねー。

 

さて、僕らがなにかを見て理解するもの。
この理解というのはどういう仕組みなのかと言いますと、
それは、分離と比較という概念を使うことによって理解をしているわけです。

よく僕も「掴み取る」という言葉を使っていますが、
この掴み取るというのも、分離と比較を用いて理解をする
ということになります。

そして、皮肉なんですが、苦の原因もまた、この掴み取りによって生まれるんですよねー。

それは、比較をするときにどうしてもどちらが安全でどちらが危険か?
という判断が生じてくるからなんです。

この判断は全くもって悪いものじゃなくて、
生存本能としてそれを感じ取るのは必要なことなんですが、
この比較がものすごーく拡大解釈されていくんですよね。

そして、安全か?危険か?
は、
何が正しくて、何が間違いなのか?へと発展し、

正しさや間違いには意味が生じ、
この意味は、どちらがより価値があるのか?
へと発展していきます。

価値がある意味は意義へとなり、
僕らはより価値がある意義を手に入れることが大切なことなんだ!
という信念へと発展していくわけです。

そして、
お金だ
人格だ
いや、ステータスだ!

と、どの意義がより価値がある意義なのか?
自分の人生にどの意義を採用すべきなのか?
と迷いも生じるわけです。

また、
自分に価値がある意義を見出せないといった思いもここで生じます。

普通の人ができることができない。
とか、
安定した収入がない。
とか、
すぐに悲しんだり不安になってしまう。
とかとか、、、。

意義によって生じる価値観に自分を照らし合わせ、
足りない自分に危機感を感じるわけです。

意義は、元々は、安心か?危険か?という生存本能から発展した概念ですので、
安心さを満たしていない自分は危険なのだ!
という、妙な解釈をしてしまうわけなんですよねー。

そしてこの危機感に苦しみを感じるわけです。

この足りない自分を妙にうがった形で埋めようと、
人を貶めてみたり、
自分の意義の正当性を保つために、
他の意義を貶めようとしてみたりと
複雑化していくというわけですねー。

この足りない自分というのが、苦となっているわけです。
そして、これを埋めようと奔走するエネルギーこそが探求のエネルギーだというわけなんです。
この拡大された解釈が、そもそも的外れであり、
解釈が的外れであるがゆえに、
僕らに足りないものなんてないということなんですよねー。

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