おはようございます。
タクさんです。
みなさん、お身体はお大事にしておられますでしょうか?
面白いですよね。
大体の人は、自分という感覚は身体があるからこそだと思っていたりして、
身体こそが自分なんだ。
なんて思ってたりするんですけどねー。
でも身体の調子が悪いとき、そのケアをするのもこれまた自分だったりしてね。
ですが、爪を切っても、歯が抜けても、
なんなら臓器を切り取っちゃっても、自分というものは減ったりしませんし、
体重がガンガン増えて体積が増えたとしても、自分というものは増えたりもしないんです。
身体って、自分という感覚の変化以上に変化したりするって思いませんか?
この辺も面白いですよねー。
だから、大人の運動会なんかでは、足がもつれてコケる人が続出します。
イメージでは足がもっと上がってるはずなのに、身体がついていっていないんですよね。
僕も最近、ラジオ体操が、結構良い運動になることに若干ショックを受けています。
だって、子供の頃はあんなのなんの意味があるのかわからない。
って感じで、運動にすらなってなくてただ体を動かしてるだけってイメージでしたもんねぇ。
今では、ラジオ体操した後は、ぐわんぐわんと血が体を巡ってるのを感じますし、
アキレス腱を伸ばす運動のきつさにガックリきております。
さてさて、
身体はそうやって、常に変化します。
身体の変化にショックを受けたりするのは、身体が自分ではないと言う証拠と言えるかもしれませんね。
だって、身体の変化について、身体はショックを受けてません。
淡々と反応し、対応されているわけですから。
心臓だって、この先後何回、鼓動を打つことができるだろう・・・。と心配したりはしません。
いろんな心配しているのは、比較の概念からくる思考だけなんですよね。
思考も心臓の働きも、同じ自分のはずですが、かたや心配などなく淡々と働き、
もう一方では、心配のタネを探しては準備を怠らないように目を光らせているわけです。
どんな働きも必要があって、単に起こっています。
だから、心配や不安も起こるなら、ちゃんと起こらせておいてあげたら良いんですよねー。
実は僕らも心の奥では、心配や不安もあって良いことを知っています。
それどころか、心配や不安が全くない!ということに対しての不安さえ持っていたりするんです。
ですが、一方で、心配や不安があることへの不快感もまた持ってたりするので、
これは解消されなければならないとも思い込んでいるんです。
僕らの思考は、何もしなければ、ちゃんと機能し、ちゃんと働いた後、
ちゃんと消えていきます。
ですが、この思考にストーリーが添加されると、
この思考はあらゆるところに飛び火し、連鎖していくんです。
それはまさに、核分裂のように瞬時に連鎖し
ストーリーは別のストーリーを生み出していくんです。
僕らが意識的に感じ取っているストーリーは、もしかしたら、連鎖に連鎖を重ねた結果のストーリーであり、元々の思いから遠くかけ離れたストーリーになっているのかもしれません。
さて、
核分裂は、中性子が飛び火することで起こりますが、中性子を吸収する制御棒を入れることによって収まっていきます。
ですが、分裂が止まっても、その熱エネルギーはしばらくの間くすぶり続けます。
思考も、言葉というツールを一旦おいておくことによって飛び火の連鎖は収まります。
ですが、やはりしつこく思考のエネルギーはくすぶり続けるんですよねー。
このくすぶりをね、ちょいと我慢してそのまんまにしておいてあげるとね。
「ああ、思考は思考の都合で起こってるだけなんだ」
ということが、だんだんとわかってくるかもしれません。
そう。
心臓が勝手に働いているのと同様に、思考もまた単なる反応であり、
この反応に、良いも悪いもなく、起こるべくしてちゃんと起こってくれていたんです。
起こらせてあげることで、解消し消えていくものですが、
抑え込むと、奥でくすぶり続けるんです。
だから、言葉をまずは置いておいて、あとはそのまんま起こらせておいてあげたら良いんです。
起こっても良いと許された思考は、起こり、そして解放されていくんです。
僕らに何かをやるべき余地はなかったんです。
※タクさんセッションうけつけちゅーです!