はい。
おはようございます。
学生時代、ランニングをしまくってぎっくり腰になったタクさんです。
どうもそれ以来、腰の調子が悪いです。
いやぁー。
ランニングって結構、膝や腰への負担おっきいですよね??
僕がひ弱過ぎ???
一応なんとかBMIは標準の範囲を保ってはいるんですが、
やっぱり僕は膝と腰が弱いみたいです。
そういえば、
この前も、高尾山(東京にあるとてもとても初心者向けの山)に登った時も、
膝がやばくて、降りるときは後ろ向きに降りておりました。
というわけで、今日も僕の運動はお散歩です。
お散歩をしていると、色々と頭の整理ができて気持ちがいいです。
よくよく思い出して見ると、学生の頃も、社会人になりたての時も、
あんな時も、こんな時も、
お散歩しながらアレコレと悩んだりしてたなぁ〜。
と思い出されます。
ま、それはさておき、
もしね。
ランニング中に、どうしても走るのに疲れたとしたならどうしますか?
まあ、そりゃ走るのをやめたらいいですよねぇ?
疲れとるんですからね。
ベンチに座って休憩すりゃいいんです。
僕らの悩みというものも、ストーリーの中にしかありません。
そしてストーリーはいわゆる働きです。
これは、走っているのと同じで、いわゆる何かを働かせている状態なんです。
ストーリーというのは、思考で成り立っています。
そして思考は、思考を働かせ続けなきゃ維持できないんです。
ということはね。
考えるのやめりゃ、ストーリーはおさまる。
ということなんですけどねー。
ただ僕らは、
どうしても、何かの考えを採用しなきゃならない。
カメラを止めるな!!!
じゃなくて、考えを止めるな!!!
という強迫的な観念を持っていたりするんですよねー。
とある考えをやめたとしても、
このことを考えないのなら、何を考えればいいの?
どういう考え方に変えればいいの?
と思っちゃうわけです。
これは走るのに疲れたから、走り方を変えようとしているのと似てますね。
カニ走りにすれば楽になるのだろうか???
みたいなねー。
いやいやいや、一旦走るのやめようよ。って話なんですけどね〜。
何でそうなるのか?
というと、だいたい理由はふた通りあると思うんですが、
一つは、僕らは考えている(走ってる)ことを忘れてる。
ということ。
そしてもう一つは、
常に考えなきゃ(走らなきゃ)ならない。
と思い込んでいること。
なんです。
走ることを忘れている場合は、まずそのことに気づかなきゃなりません。
そして、走らなきゃ始まらないと思っている場合は、その執着から脱却しなきゃならない。
というわけなんです。
この辺が、いわゆる修行なんかでも行われていることなんじゃないのかな?
と思います。
ちなみに、僕の考えとしては、走っていても全然いいじゃん!
ってことなんですけど、それは、走らなきゃ始まらないという思い込みが抜けてくると自然にそうなったりするんだと思います。
でも、いわゆる修行で、要注意なのは、執着から脱却しなきゃならないという思いがまた、
一つの執着となってしまうことだったりするというわけです。
なのでどこかのタイミングで、
修行や教えみたいなものからも、脱却しなきゃならないんですよねー。
僕らの思考は、どっちでもいいというものをつかみとれません。
この習性が時に、思考をしないのか?するのか?の二者択一をせまり、
何も考えないなんて、夢も希望もないじゃないか。
そんなの、ただの平和ボケだし、お花畑だし、バカっぽいじゃん。
そして、虚しいだけじゃーん。
みたいな錯覚も起こします。
でも、そういうことじゃなくて、
もっと色濃く、もっと生き生きと、そしてもっと制限なく
ストーリーを遊べる!ということなんですよねー。
なので、その辺は心配しなくてもいいわけですが、
もし、虚しくなってしまったのだとしたら、
それは何かしらの執着に引っかかっているということになります。
厄介なのは、全てがわかった!と思ったあとに虚しくなるパターンで、
わかったからもう執着に引っかかってるわけはない!
という思い込みがあったりするパターンだったりします。
でも、このパターンもまたよくあることなので、
あ、もしかしたら、特別な自分という思いに酔ってるのかも、、、。
と、確認してみたらいいかもしれません。
あるがままとは、まさにあるがままなので、
もう当たり前です。
そして、この何にもなさこそが当たり前なんじゃんということが明らかになるにつれ、平安さに包まれていきます。
平安さとは、平凡さです。
自分が究極の平凡さに戻る時、元々あった自由がひろがり、
自分もまた、ここに溶け込んでいくんです。
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