思考もただ起こっています。
体の感覚、そして心の感覚もまた、
ただ起こっているんですよね。
それは、誰かに起こっているというわけじゃありません。
だから、ただ起こっているんです。
でも、わしに起こってる感覚は、あんたには起こってないやないかっ!
って思うかもしれません。
これ、ものすごーくよく頂く質問です。
でも、その思いが起こったのなら、
その思いがただ起こっただけなんですよね。
ですが、僕らの思考は、相対的な概念によって成り立っています。
「わしに起こってる感覚は、あんたには起こってないやないかっ!」
という思いは、
だから「私」がいるという強固な概念になっているんです。
我は考える。故に我あり。
これは、「私」を支える根源的な概念であり、観念になってるんですよね。
その思い、その感覚はどこかに持ち主がいるようなものでもないんです。
外に吹く風。
この風に持ち主がいるでしょうか?
地球は常に回り続けながら、太陽の周りを回る。
宇宙は常に膨張を繰り返している。
ここに行為者はいませんよねー。
明日あたりに芽を出そうかな?
と考えているタネもいてません。
あらゆることに、行為者も持ち主もいないんですよねー。
腹が減ったから、腹が減ったのは私だっ!
と思っちゃいますが、
起こってるのは、単に腹が減った。
ということだけなんです。
今日は仕事が早く終わりそうだから、
夕方には腹が減ろうかなぁー。
って予定と立ててる誰かはいませんからねー。
思考や感情もただ起こってること。
こう聞くと、僕らはとっても寂しい思いを感じるかもしれません。
だって、感情も思考もこんなに愛おしいものですからねー。
それが、ただ起こってるだなんて、、、。
とっても寂しいし、そんな無味無臭な、乾燥した世界が悟りの世界なんだとしたら、
そんな世界には住みたくない。
って思ったりもしますよね。
と、同時に、なぜこんなツラい思いに同一化しちゃうんだろう?
と悩むこともあるかと思います。
どちらも同じ理由ですね。
それは愛おしからなんだと思います。
起こってる思考に私を同化するのも、
元をただせば愛おしいからなんですよね。
でもこの愛おしさは、私がいないからといってどこかに消えるわけじゃありません。
愛おしいから、私があとから同化されたわけですからね。
私が消えたら、ちゃんと愛おしさが残るわけです。
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