Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

知識と重要さが生む蒙昧。

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スマホでこのブログを見ていただいている方には、このブログの副題は見えてないかもしれませんが、PCで見ていただくと、副題のメッセージが書いてあると思います。

このブログの副題は、
非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。
ということになってるんですよねん。

これはもうずっとこういう副題でやらせてもらってます。

非二元とか悟りとか。
こういった特別な状態があるというわけではないんですよね。

どちらかというと、それは特別ではなく、そっちが当たり前であって、
その当たり前の土台の上に、僕らはあらゆる知識を積み上げ、
その積み上げた知識のほうを見ることによって、
そちらを見ている間は、土台の方の脇に置いている。
ということなんです。

 

ですので、僕らは世界をどのように見ているのか?
といいますと、
知識で見てるというわけなんです。
知識を通して見ているという方が近いかもしれません。

そして、知識を見ることがクセになっちゃってるので、
もともとそこにあった土台さえも知識で探そうとしちゃうんですよね。

例えば、ここに、とっても高価な壺があるします。

骨董に詳しい人、例えばマクベさんなら、これは数千年前の中国の王族が使っていた壺だ。
と、とても貴重なものを見る目で見るでしょう。
「あれは、、、良いものだ!!!!」
とか言いながらねー。

でも、骨董に詳しくない僕にしたら、古臭い壺だけど、お高いんでしょうねぇ。
といったような見方をするでしょう。

何も知らない子供だったら、
「わーいっ」て言って壺をドンガラガッシャーンッ!って
壊しにかかるかもしれません。

ちなみに猫が見たら、クンクンと匂いを嗅いだあと、自分の匂いをスリスリと擦り付けるくらいのものにしか見てないかもしれませんねー。

そやって、僕らは知識を通して世界を見るわけですが、
この知識には、重要度というものもくっついています。

「あれは、良いものだー!」
という思いは、重要度が高いですよね。

そして、重要度が高いと僕らはそこに強くフォーカスするわけなんですよねん。

この知識と重要度が絡み合ったもの。
これがいわゆる「煩悩(ぼんのう)」ってやつなんだと思うんです。
知らんけど。。。

で、この知識を通してものを見るというクセは、
より正しいものの見方をするために、知識を蓄えようとしますし、
より深く見るために、より深く知識を求めます。

もちろん、これは、世界を色付ける素敵なスパイスなので、
全くもって悪いことじゃないんですけどね。

ただ、そうやって見てるんだ。
ということを忘れちゃうと、
知識こそが本当なんだ!といった錯覚をしちゃうというわけです。

知識はより道理を知るための道しるべだったはずが、
知識を集めすぎて知識に支配されちゃうことで逆に蒙昧になってしまう。
なんていう皮肉も生み出しちゃうんですよねん。

この錯覚から目覚めて、
楽しく知識集めをすりゃ良いじゃん。
そして、楽しく色付けして遊べば良いじゃん!
って話なんですよねー。

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