人は、自信がないと悩んじゃう場面ってありますよね。
では、自信があるという状態って何でしょう??
それって、何かに対してうまくできる予測ができているということですよね。
そして、自信がない。
というのは、
自分がうまくいく予測がたたない。
ということなんです。
思考ちゃんというのは、
予測を立てることと、起こってることのつじつまを合わせるという働きをします。
これは、そういう働きが単に起こっているだけなんです。
風が吹いているのと似たような現象です。
そして、思考ちゃんの予測はかなりの確実で外れますし、
起こってることに対するつじつま合わせも結構いい加減だったりもします。
「雨が振りそうやから、傘持っていこうかな。」
と思って、持ってきた傘だって、使わないことがほとんどですからね〜。
ま、それはそれで良いんです。
思考の予測というものは、そうやって使うものですからね。
でも、いかんせん僕らは、思考に「私」をくっつけてしまうんですよね。
そうなると、「私」はすっかり思考の奴隷に成り下がっちゃうんです。
こうなると、何をするにも、思考ちゃんにお伺いを立てなきゃならなくなっちゃうんですよね〜。
何をするにも、思考ちゃんが納得できるような予測材料を用意しなきゃいけなくなるわけです。
そして、その材料が用意できないとき、
ぼくらは、自信がないと感じちゃうわけなんです〜。
もしね。
なにかやりたいことがあったとして、
それが、今までやったことがない未経験なことだったとしたなら、
それに対して、予測が立たないのって、
ある意味、当然じゃないですか。
わからんことが山盛りですからねー。
なので、わからんことに予測を立てるのって、まあ、無理ゲーなわけです。
そして、予測材料が用意できないので、思考ちゃんは納得してくれず、
「あかん、、、自信がない。。。」
っていうことになるんですよねー。
でね。
材料探しをし始めるというわけですが、それはそれで良いんですよ。
勉強したり、練習したり。
そりゃ、楽しくやれば良いじゃないですか。
ただ、思考はツールであって、お伺いを立てなきゃならないものではありませんからね。
自信がないと悩む必要も無いんですよね〜。
こうすりゃもっと楽しいかも!もっと面白いかも!と思って、勉強したり練習したりするのは、楽しい作業になりますが、
「自分には足りないものがあるからそれを補わなければならない!」
と思って何かをやるのは、
なんていうか、我慢しながら努力する。
なんていうふうになっちゃうんですよね。
そして、
「努力するからには報われるはず!」
といった期待は時に裏切られ、
そして、裏切られた時に、
「どうしてこうなったー!」
とまた、悩まなきゃならなくなったりしてね。
ま、これも努力したからにはこうなるだろう。
という予測が外れたってことなんですけど、予測が外れると思考ちゃんはそれを失敗だと捉えるんです。
そして、思考に「私」をくっつけてる場合、
「私は失敗をした〜!」
ってなっちゃうんですよね。
思考は一つの働きです。
それは空に浮かぶ雲が形を変える働きをしているのと同じことです。
もし、僕らが「私」を雲にくっつけたのだとしたら、
雲の形が変わる度に、
「わたしゃ変わってしまった!都会の絵の具に染まってしまった」
って感じたりするわけですが、
それって、壮大な幻想ですよねぇ。
思考に私をくっつけて、予測が外れる度に、
「私が失敗した〜!」
って感じるのも、同様に壮大な幻想なんです。
ただ、皮肉なことに、
失敗した私。
足りない私。
といった考えを信じると、
今度は思考ちゃんは、つじつまを合わせようと、
失敗や足りないを納得させる材料をせっせと探し出しては、
足りない私を確立させてくれるんです。
おせっかいなやつですよね。
そうやって、マイナスイメージを信じれば信じるほど、
どんどんとセルフイメージは下がったりするわけなんですが、
今度はこのセルフイメージにたいして、思考ちゃんはせっせとつじつま合わせをしてくれるようになります。
「私なんてダメだよ。だってあんなことやこんなことがあったもん。」
「だからきっとこれからも、失敗するよ。」
といった具合にね。
そうして、ドンドン自信がない自分を作り上げちゃうわけです。
このセルフイメージってね。
無根拠ないい加減なものなんですよ。
勝手に作られたつじつま合わせによって誕生したものですからね。
だから、もう好き勝手に変えてやってもいいんです。
根拠はないけど、
私はイケてる!
僕って最高!
私ってばグレイト!
ってねー。
うまくいくと、徐々に思考ちゃんは、
すごい自分に対するつじつま合わせを勝手にやってくれます。
そのうち勝手に根拠がくっついてくるんですよね。
ま、そうやってセルフイメージを上げていくのも良いんですが、
いずれにしても、
勝手につじつま合わせをする機能である思考ちゃんに、「私」を閉じ込めなくても良い。
ということなんです。
「カンケーあらへんがな!」
ってことを知れば知るほど、「私」は思考から解き放たれます。
もし、その思考が私であるなら、私が思考に悩まされるというのは実は変な話なんだ!
ということに気づいてみれば良いんです。
私が起こす思考なら、思考に悩むのってナンセンスですもんねぇ?
このことに気づきだすと、「私」はイメージの世界から解放されていきます。
僕らができるのは、注意深く観るだけです。
観ることで思い込みがほどけていくんです。
思考を置いておいたとしても、
思考を頼りにしなくても、ちゃんと在るということの発見。
それが、「私は在る」の発見なんです。
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